近衛上奏文に対する刺客

45年9月、総司令部の対敵諜報部の分析課長に任命されたカナダ公使館員ハーバート・
ノーマンが来日。ノーマンのボスはG2のソープ准将だが部内では別格扱いでマッカーサー直属となり、日本の政治指導者や政治犯の情報収集を開始します。

最初の仕事は10月4日に発令されたマッカーサー指令に基いて、徳田球一や志賀義雄
ら16名の主要な共産党員を釈放することで、5日府中刑務所を訪れます。次の仕事は近衛文麿木戸幸一の戦争責任に関するレポートの作成で、11月5日このレポートは覚書としてアチソン宛に提出されました。

そこには「近衛は陸軍大臣に、関東軍系の最も冷酷な板垣征四郎を選んでいる。更に
彼は東条英機を初めて重要な政治的官職につけた。即ち関東軍参謀長の前職から連れ
てきて陸軍次官としたのである」「近衛の後押しがなかったら木戸は内大臣になれず----」「木戸が最初に降伏を決定した重要政治人物の一人」とありました。

この悪意に満ちた記述はどうであろう。当時陸軍大臣決定は陸軍首脳の専権事項であ
り、首相と雖も容喙することは出来ないのである。また東条を陸軍次官としたのは前任の杉山陸相や梅津次官ではなかったか。木戸が内大臣になったのは西園寺公望の尽力であり、降伏を説いたのは近衛や吉田茂ではなかったか。

52年米国上院司法委員会の報告で、ノーマンがソ連のスパイであった可能性が指摘さ
れ、エジプト大使に転任した彼は、57年4月4日カイロで謎めいた投身自殺を遂げる。
ノーマンの近衛への反発の源は共産主義への警戒心の喚起が原因であり、近衛上奏文
に対するモスクワ指令があったからと思わざるを得ない。

都留重人と3歳年長のノーマンとはハーバード大学在学中に深い親交がある。彼等は共にマルクス主義者で、共産党の下部組織やその周辺の団体に加わっていたと思われる。45年10月末都留は戦略爆撃調査団に加わり、ナントB29に乗って爆撃対象となった名古屋や阪神地区を視察しているのである。

都留は39年6月一時帰国して東工大学長和田小六の娘正子と結婚。和田は木戸幸一
実弟であり、ノーマンは木戸の姪が親友都留の妻であることを承知していたのである。
和平仲介をソ連に依頼するという逸早い発言や他の発言を顧みると、木戸は都留にだいぶ毒されていたことを痛感する。

木戸は東京裁判で終身禁固刑を言い渡されたが、55年12月16日巣鴨拘置所から仮釈放されます。近衛の祥月命日に釈放されたことを木戸は知ったであろうか。


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