梅津美治郎の刺客

45年9月13日GHQは大本営の閉鎖・廃止を命じ次いで9月15日参謀本部・軍令部・教育総監部の解体を命じ、梅津参謀総長は10月15日解職されます。陸軍省海軍省は11月30日で解体され、12月1日からは第一復員省(海軍省は第二復員省)と改められ、未だ海外にいる陸海軍将兵200万余の帰国業務に携わり将来は厚生省の一局となる。

12月6日近衛公爵、木戸侯爵らの逮捕命令が出されたその日の19時キーナン主席検事
ら38名が厚木飛行場に到着。キーナンの到着で裁判準備は本格的段階に入り8日東条ら大森捕虜収容所の戦犯容疑者も巣鴨拘置所に移されました。

46年元日天皇は、平和主義に徹し新日本を建設せよと述べ、天皇を現御神とするのは架空の観念であるとして自らの神格を否定。1月4日GHQは政・官・財界・言論界等の公職から戦争協力者・職業軍人国家主義者らを排除する目的で約21万名を追放します。

2月3日オーストラリアからウェップ判事が東京に着き、マッカーサーから東京裁判裁判長就任を要請され、即座に受諾します。開廷まぎわの4月13日17時半ソ連判事ザリヤノフ少将、検事ゴルンスキー一行を乗せたソ連巡洋艦東京港に姿を見せます。

4月22日ゴルンスキーはキーナンに被告の追加または変更を申し出、重光葵梅津美治郎を含めろと言うのである。キーナンが追加を拒否するとゴルンスキーは入替えを主張し、希望が叶わぬ場合はソ連は裁判に参加しないかもしれぬと恫喝。

ソ連不参加の開廷は絶対に避けねばならないマ元帥は変更を認めます。ソ連側は阿部
信行、真崎甚三郎をはずして重光、梅津を加えることを提案しキーナンも承知します。梅津は逮捕指令が発せられた4月27日子分の池田純久に弁護を依頼します。

池田は米国弁護人ブレイクニーに「ソ連がやかましく言ってきたら米国に亡命させてくれるか」と尋ね「引受けた」との返事を受けて梅津の弁護を承諾します。こうして46年5月3日東京裁判が開廷されました。

米陸軍第361野戦病院に入院中の梅津は48年11月12日欠席のまま終身禁固刑の判決
を受け、生涯日記も手記も残さず49年1月8日直腸癌で死亡。享年67歳。なお重光の判決は禁固7年であった。


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