外相重光葵の奮闘

重光葵は米軍の占領が順調に進んだ世相を描写している。「日本の指導者は官界、民
間を問わずマッカーサー詣でに狂奔し----いずれも占領軍に対する理性を喪いたる媚
態となり、いうに忍びざるものあり----維新当初の状態を想起せしむるもの多し」「所詮日本国民は自主性なき三、四等民族に堕したるなきや」と感想を結んでいます。

45年9月2日ミズーリ艦上の降伏文書調印式を終えた直後GHQは布告案を提示します。その内容は司法権を剥奪したり軍票法定通貨にしたり、間接統治ではなくドイツの例をそのまま持ち込もうとした措置でした。同夜岡崎勝男終戦連絡中央事務局長は横浜に急行し布告差止めに同意させ、3日重光がマ元帥に面会し説得に成功します。

マ元帥は軍政でも間接統治でも、占領がうまくいけばそれで良いという考えだったのであるが、重光はこの成功を記者会見で誇ったために占領軍の不興を買うことになる。

9月11日米国憲兵東条英機を逮捕しようとし、東条は拳銃自殺を図って果さず逮捕された。重光は横浜に出かけサザーランド参謀長に抗議。以後戦犯の逮捕は占領軍の命令に従って日本政府が行うこととなった。そして閣議は、戦犯の裁判は日本の手で行うことをGHQに要求すると決定します。

その閣議決定天皇ご自身から異議があった。「昨日まで朕の信頼していた臣僚を、朕の名において処刑することはできない」とのお言葉でした。GHQとのこの交渉は予想通り成功せず、やがて極東国際軍事裁判(東京裁判)となるのである。

この交渉に失敗した頃から対GHQだけでなく、閣内の重光の立場は悪くなります。その理由は重光が政府首脳とマ元帥との直接接触を阻んだことにある。米国との折衝は外務省の終戦連絡事務局が窓口となることに固執したのは、外務省の外交一元化の原則からくるものでもありました。

しかし、9月13日に国務大臣近衛文麿が、9月15日に首相東久邇宮マ元帥と個別に会談。重光は孤立無援の立場を悟って辞任し、後任の外相は吉田茂となる。


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