ドゥリットル空襲そしてミッドウエイ

太平洋上の米空母ホーネットから発進した、ドゥリットル陸軍大佐率いるB25爆撃
機16機は、42年(昭和17)4月18日昼過ぎ東京上空に進入し、東京に爆弾を投下。川
崎・横浜・横須賀・名古屋・四日市・神戸などを爆撃して、東シナ海から中国の米軍
基地へ逃れます。米空母部隊が無傷であることを誇示する空襲でした。

爆撃機の殆どは燃料切れや悪天候によって墜落し、無事帰還したのは4機に過ぎませ
ん。不時着したりパラシュートで脱出した米兵8人を在中国の日本軍が捕えます。東
条首相の要望により上海の軍律法廷が開かれ、小学生を撃ったという理由で全員の死
刑が決定。東条は天皇の聖断を仰いで、銃殺刑を3人に留め、残りは減刑しました。

戦後、東京裁判でこの飛行士に対する極刑が問題になった時、東条は天皇の指示によ
って裁判を行ったと述べます。ラジオでこの答弁を聞いていた天皇は「東条は嘘を言
っておる。恰も私が命じたように言ってくれ、私を庇っているのだ」と話したという。

いまや守勢に移るか進撃を続けるかが問題となり、陸軍は国力培養の見地から消極論
であり、海軍は早期艦隊決戦主義から積極論で、戦略がまるで違うのである。結局「
戦争指導の大綱」は作文による妥協となり、「長期不敗の態勢を整えつつ、機を見て
積極的な方策を講ずる」となります。これが今日に至る日本の作文行政の弊害である。

陸軍も海軍もそれぞれ別々の戦略に従って行動することになり、海軍が突出して行動
すれば、陸軍もそれにつき合わざるを得なくなるという仕組みになりました。

海軍軍令部は反攻基地である豪州を米国から遮断するために、フィジーサモアの攻
略を主張したが、真珠湾奇襲作戦成功でカリスマ的存在となった山本連合艦隊司令長
官はミッドウエイ攻略を主張。妥協の産物として軍令部は双方の主張を採択します。

海軍戦略の祖アルフレッド・マハンは言う「およそ作戦に関して調節を可としかつ必
要とするが、妥協はいかなる場合でも不可とする」不可とする愚を日本海軍はやった。


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