シベリア抑留

45年(昭和20)8月15日午後ワシレフスキー元帥は、カムチャッカ防衛地区司令官グネ
チコ少将に千島列島占領の上陸作戦命令を発し、18日から19日にかけて占守島に上陸
、以後千島列島を順次占領していく。南千島のウルップ島及び北方四島が完全占領さ
れたのは9月3日でした。

更に16日モスクワの総司令部は極東ソ連軍に「日本の天皇による降伏に関する通告は
無条件降伏の声明に過ぎない。日本軍に対する戦争行為中止命令は出されておらず、
日本軍はいぜんと抵抗を続けている。ソ連軍は日本への攻撃を継続すべし」と命令。

同日スターリンは日本軍隊の降伏区域を決める一般命令第1号の米国案に対する要望
書のなかで、北海道の釧路市から留萌市を結ぶ北半を占領しなければロシアの世論は
大憤慨する。その理由は日本軍は18年〜21年ソビエト極東を占領下に置いていたからである。(シベリア出兵)

スターリン書簡に対し、18日トルーマンはこの独裁者に譲歩することは戦争で敗者に
なるに等しいと怒りを露わにし手厳しく拒否するだけでなく、記者会見を開いて「占領地域を分割することは日本の場合まったく不必要」と念を入れました。

8月24日スターリンはワシレフスキーに対し極秘の捕虜移送に関する実施要項を示達。そこには「旧日本軍の軍事捕虜のうちから身体強健な捕虜を最低50万人選抜し----」とあり、ポツダム宣言第9項の「日本国軍隊は武装解除せられたる後、各自の家庭に復帰し平和的生産的生活を営むの機会を得しめらるべし」は簡単に蹂躙されます。

厚生省調査では総数57万4,530人がシベリアに送られ、待っていたのは重労働と飢えと寒さの長い歳月でした。そして10万人以上の日本人が帰国出来ずシベリアの土となったのである。関東軍将兵たちはその身と引き換えに、分割国家の悲劇を防いだと言わねばならない。

ソ連軍の占領下におかれた満州北朝鮮・千島・樺太と日本本土との通信は全く途絶し、外務省が日本兵のシベリア送りの事実を知ったのは46年3月末のことという。


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