国際法に対する無知・無能

45年(昭和20)8月15日正午、天皇ポツダム宣言を受諾する旨の玉音放送を行った。
しかし関東軍総司令部では大本営から停戦命令あるまでは、作戦の大道を動かすべき
ではないという態度をとります。23時停戦命令が入り、総司令官山田乙三・総参謀長
秦彦三郎等の最高幹部は16日8時幕僚会議を開き、これを受け入れる断を下します。

17日夜ワシレフスキーは電報で、本官は8月20日12時以降、全戦線にわたってソ連
に対する一切の戦闘を停止し、武器を棄て投降するよう関東軍総司令部に提議します。

同じ頃、外務省はマニラのマッカーサー司令部に訴えます。「ソ連軍は積極攻撃を続
行中にして、貴司令官においてソ側に即時攻勢停止を要請せられんことを切望す」日
本政府はマッカーサーソ連を拘束する権限があると誤解していたのです。現実には
ポツダムでの米ソ軍事協定でソ連軍の占領地区は決められており、この協定地区内で
ソ連がいかなることを行おうと、マッカーサーはそれを制止できないのである。

19日15時30分ソ満国境に近いジャリコーヴォにあるソ軍第一極東方面軍司令部で会談
が行われました。日本側が秦総参謀長・瀬島龍三参謀・ハルビン総領事宮川舩夫の三
名、ソ連側はワシレフスキー他三元帥に加え幕僚若干名が後ろに控えます。

秦の手記には「日本軍の名誉尊重、居留民の保護の二点を特に強調した」とあり、瀬
島手記には「将兵の本国帰還も強く要望」とあるがワシレフスキーは自分の権限外の
こともあるので本国政府に報告する」と答えたという。「交渉の間じゅう秦とその側近たちは全く意気消沈して見えた。サムライの強気は跡形も残っていなかった。我々の一言一言に性急にうなずいた」とワシレフスキーは書き残しています。

しかしこの会談は正式な停戦協定というべきものではなく、せいぜい停戦交渉にすぎ
ませんでした。降伏の正式協定を結びたいのであれば、日本政府・大本営天皇の全
権委任状をもった使節を送らねばならなかったのである。昭和の日本軍は日清・日露
の戦いの時のように、どの軍にも国際法の専門家を配置するという従来の教訓も無視
していたのである。

国際法に無知というより無視、国際情勢の理解の浅薄さ、先見性や想像力の欠如、外
交交渉の拙さ、そのDNAが今日の我々にそのまま繋がっているのではないか?


レース結果共鳴チェック