原敬内閣は「参謀本部廃止」を目指したが---

シベリア出兵を推進したのは上原参謀総長田中義一参謀次長の参謀本部であった。
その田中が原内閣の陸相に就任するやいなや漸次撤兵政策を打ち出し、天皇の裁可を
得て参謀本部には抜打ち的に公示します。

出兵兵力の進退は、統帥権に属し政府の権限外であるという参謀本部の抗議に対して
田中はこの出兵は政略出兵であり、陸軍大臣の措置に属するとして問題にしません。

この政府の撤兵決定に反対して上原参謀総長は、辞表を提出します。原首相は「参謀
本部は山県の後援で時勢を悟っていない。統帥権云々を振り回すのは前途のために危
険である。皇室に累が及ばないよう政府が全責任をとるのが憲政の趣旨であり、また
皇室のためと思う。」と当時を述べております。

また長岡外史は「航空隊に力を入れる財政的余裕がないというが、参謀本部を廃止す
ればその資金は余りがある。山県が死ねば参謀本部は廃止される運命にある。」と主
張。高橋是清蔵相も参謀本部廃止を提案します。田中は同感しつつも、これが表に出                                                                               ると逆効果となるとして公表しないことで原と合意します。

21年(大正10) 上原の後任に秋山好古が予定されます。原の日記には「予期のとおりに
行われれば、国家の一進歩を促すであろう。」と記しておりました。

山県は大正天皇がご病気であると、理由にもならない理由で参謀総長更迭を延期させ
ます。同年11月4日夕刻 原は政友会近畿大会出席のため、東京駅南口改札付近で、
18歳の国鉄大塚駅職員「中岡艮一」によって刺殺されてしまいます。65歳

岡崎久彦は「原が山県よりも生き延びられなかったのは大正史の痛恨事であった。」
と残念がっております。

また上原と田中の感情的対立による陸軍内派閥抗争は、後の皇道派と統制派との対立
に発展していく素地をなすものであった。

大内 力著「日本の歴史」第24巻に次の記事を発見しました。
「シベリア出兵の際、陸軍は出先で、ロシアの兵営にあった金塊や砂金一千万ルーブ
ルを押収して密かに日本に送り、宇都宮の第14師団に隠していたらしい。それはい                                                                               つか換金され公債や預金になって陸軍省に保管された。」とあります。


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