「宮中某重大事件」で晩節を汚した山県

世界情勢の変化につれて、政治は政党協賛から憲政の確立へ、経済的には政商から近
代産業へ、文化的には良き臣民から個人主義の主張へと、およそ山県有朋の想像でき
ない方向へ、大日本帝国は急速に変りつつありました。

そこから枢密院議長である山県は、枢密院を自派で一層固めることに専念しつつも、                                                                               最後の防衛線として宮中へも勢力を扶植します。まず内大臣松方正義を排除し、宮内                                                                               大臣波多野敬直を更迭してその後任に,長州閥の中村雄次郎中将を据えます。

20年(大正9)の夏、山県の耳に、皇太子妃に内定している久邇宮良子女王には色盲
遺伝がある、という情報が入り、良子女王の父邦彦王に「婚約辞退」を勧告する手紙
を送りつけます。原敬首相は同意するも、政府が宮中の紛争に巻き込まれることを避
けようとし関与しません。

11月26日邦彦王は、辞退を強要されたことを暴露する上書を皇后に提出、事件は一挙
に表面化します。「宮中某重大事件」といわれ、薩長の対決とも喧伝されます。

「ご婚約を破棄ということになれば、良子を刺し、私も切腹致しましょう。」という
邦彦王の悲壮な決意が人の胸を打ち、良子女王に「皇后学」を講義していた杉浦重剛
は、「内約取消しは、天皇の威信を傷つけ人倫にそむく---」と山県に反対します。

杉浦から頭山満内田良平右翼団体が山県反対に動き出し、これまでの山県の陰謀
を暴露する怪文書がしきりに流され、世間の反感が山県にいっぺんに集中します。

更に、右翼団体は翌年2月11日の紀元節明治神宮に祈願し、国民大会を開こうと攻
勢をかけるのだが、慌てた宮内省はその前日に、婚約内定に変更のないことを中村宮
相が公表して、混乱を未然に防ぐのです。山県一派の惨敗に終わったのである。

中村宮相は辞任して、牧野伸顕(大久保利通の次男)とかわり、山県は一切の官職・栄
典の辞退を申し出て、天皇に慰留されて翻意するのだが、山県の勢威は失墜しました。

邦彦王の父君はあの有名な中川宮(朝彦親王)であることを想うと、山県の凄まじい怨念を感じます。1863年(文久3)八月十八日の政変・七卿都落ちを朝廷内で画策したのは、薩摩が送りこんだ中川宮だったのである。偽勅を発して大藩に冥加金を強要する長州を宮中から排除した薩摩は、当然のことをしただけなのである。



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