世界は国際協調へ歩み出すのだが---

19年(大正8)1月18日 パリ講和会議が開催され、米国大統領ウィルソンは十四カ条の
平和原則をもとに理想主義的主張をするのだが、英・仏の現実主義に多くを譲らざる
を得ませんでした。

例えば民族自決は、ハンガリーチェコスロヴァキアポーランド等の独立にのみに
適用されただけでした。

この年の1月21日 日本が支配する朝鮮の前国王高宗(68歳)が急逝します。自害という                                                                               説もあるにはあったが、毒殺という囁きが漏れ出ます。人質となっていた英親王と梨
本宮守正王の長女方子の結婚式は無期延期となり高宗の国葬は3月3日と決まります。

高宗が日本人によって毒殺されたという噂は、朝鮮全土に広がり異様な雰囲気のなか
講和会議で民族自決の原則が唱えられたことに触発されて、3月1日学生を中心とす る周到に準備された「独立宣言」が発せられデモ行進が行われます。京城のほか義州・宣川・平壌・鎮南浦・元山などでも同一時刻に発生しました。これが三・一独立運動 (万歳事件)です。

第二代総督の長谷川好道は、日本軍隊による虐殺を重ねて、5月末までの3ヶ月間に、                                                                              朝鮮人の死者7,509名、負傷者15,906名もの大量の犠牲者を出してしまいます。

朝鮮に起こった三・一独立運動はインドに波及します。同年の4月6日 英国の支配
から脱するため、マハトマ・ガンジーは非暴力・無抵抗を貫徹する民族独立運動を起
こしました。

中国では講和会議で二十一カ条廃棄の要求が拒否されたことから、同年5月4日北京
の学生3,000人による排日デモが起こり、全国的に拡大・深化します。(五・四運動)
段政権は逮捕学生を釈放しヴェルサイユ条約の調印を拒否して鎮静化を図りました。

同年5月20日付読売新聞の柳宗悦の記事を抜粋します。
「反抗する彼等よりも一層愚かなのは圧迫する吾々である。(中略)独立が彼等の理想
となるのは必然の結果であろう。(中略)吾々の国が正しい人道を踏んでいないという
明かな反省が、吾々の間にあることを知ってほしい。」


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