更なる国際協調への布石
20年(大正9)1月ウィルソン提案の国際連盟が発足し、日本は四常任理事国の一つと
して参加します。日本国民は、これで日本も世界の「一等国」になったと思うように
なりました。
この日本国民の思い込みは、清朝崩壊後に混乱の時代を迎えた中国に対する侮蔑とな
り、古来より多くの日本人が抱いていた孔孟の国、中国に対する深い尊敬の念が失わ
れたことは、後の両国の歴史に不幸な事態をもたらす背景となっていくのである。
21年 米国大統領ハーディングの提唱でワシントン会議が開催されました。そこで、
米国主導による四カ国条約締結との引換えでの日英同盟廃棄が決定されます。帝政ロ
シアの消滅は、英国にとって日英同盟の必要性が薄れたからでした。
22年 海軍軍備制限条約調印により主力艦保有比率が定められ、軍拡競争の歯止めと
なりました。英国の国防予算は、20年〜22年にかけて八億九六〇〇万ポンドから一億
一一〇〇万ポンドへと劇的に削減されたのです。
また同年 中国も参加した九カ国条約が成立しました。中国での日本の特殊権益(石井
ランシング協定)が否認され「二十一カ条要求」以前の状態になります。
東京裁判の法的根拠となる九カ国条約を問われた東条英機は「ワシントン会議でこの
条約が結ばれた頃は、日本人の身体に合う服だったが身体が大きくなったので合わな
くなった。」と答え、首席検事キーナンが「不謹慎だ」と激怒するのです。
日本政府は国際協調主義に従って軍縮を実施しようとするのだが、野党は軍の一部と
一緒になって反対します。また当時の国際協調に対する国民の無理解は、軍部独走の
背景となっていくのである。
世界大戦に参戦し勝利しても領土要求を一切しなかった米国を、日本陸軍はどのよう
に観たのであろうか? 植民地獲得競争は終わった!世界ルールは変わった!という シグナルを故意に無視したとしか思えないのである。