死者十万人・不明四万人超となった関東大震災

23年(大正12)8月24日首相加藤友三郎は、現職のまま大腸ガンで死去します。関東大
震災に帝都が見舞われたのは、第二次山本内閣(山本権兵衛)が組閣中の9月1日のこ
とでした。陸相田中義一、陸軍次官に宇垣一成が就任します。

大震災下の戒厳令は国民に知らされぬまま、秘密裡に決定され発布されました。戒厳
令の発動を前内務大臣水野錬太郎に強く建言したのは前警視総監赤池濃であり、さら
赤池内務省警保局長後藤文夫にも戒厳令発動を切言します。

その後藤は2日の午後 海軍船橋送信所に次の電文を騎馬伝令で送りました。「震災
ヲ利用シ朝鮮人ハ各地二放火シ、(中略) 東京市内ニ於テ爆弾ヲ所持シ石油ヲ注ギ放
火スル者アリ」---と

これがありもしない朝鮮人暴動説を既成事実化させ、震災で全てを失った民衆の不満
と不安を一定方向に向けて煽る結果をもたらしました。関東各地の住民が組織する自
警団の手で、無惨にも数千人の朝鮮人と数百人の中国人が殺害されてしまったのです。

また『昆虫記』の翻訳者で無政府主義者として有名な大杉栄、その内妻の伊藤野枝、 大杉の六歳になる米国籍を持つ甥、橘宗一が9月16日拉致され殺害されました。
この事件は陸軍中枢による組織犯罪だったのです。

宇垣次官の命令で大杉殺害の首謀者とされた渋谷憲兵分隊長兼麹町憲兵分隊長、甘粕正彦大尉は懲役十年の冤罪を受け入れます。しかし摂政宮裕仁(後の昭和天皇)のご成婚があり減刑されその後も模範囚であったため、26年(大正15)10月9日仮出獄となります。

大杉殺害の復讐を誓った無政府主義者達は、戒厳司令官福田雅太郎大将を狙撃する事
件を起こし、加えて大正12年12月27日 帝国議会開院式に臨む摂政宮裕仁親王が、無政
府主義の信奉者難波大助に狙撃されます。幸い摂政宮は無事でした。(虎の門事件)

虎の門事件により山本内閣は引責退陣せざるを得ませんでした。その後任陸相をめぐ
って、参謀本部長を退任した上原勇作元帥は福田雅太郎大将を推し、宇垣次官を推す 田中陸相と対立するのです。

以上 佐野眞一著「甘粕正彦 乱心の曠野」から抜粋しました。

陸軍は田中陸相の指揮のもと、献身的な災害救助を行い国民の信望を得る裏側で、社会主義者一掃に暴走していたのです。




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