ロシア革命に対する武力干渉「シベリア出兵」

12年(大正元)12月二個師団増設を拒否された陸相上原勇作は、辞表を天皇に直接提出
します。この政策立案の責任者、田中義一軍務局長・宇垣一成軍事課長共に陸軍省
去り、このトリオは当分のあいだ冷や飯を食うことになりました。

大正3年6月中将となった田中は参謀本部の参謀次長に、12月大将の上原が参謀総長
に、翌年3月少将宇垣が参謀本部第一部長にそれぞれ返り咲き、トリオが復活します。

この参謀トリオが、山県有朋・首相寺内正毅の対米協調の立場からの慎重論を、押し
きって推進し、実現にこぎつけたのがロシア革命への武力干渉であるシベリア出兵で
あった。

18年(大正7)8月米軍八千、日本軍一万二千だったが、日本は別途独断で満州から出
兵して合計七万二千を派兵します。日米軍は赤軍の抵抗を排して、シベリア鉄道沿い
の要地を確保し、9月には東シベリアをほぼ制圧します。

原敬内閣の陸相となった田中は、10月以降日本軍を一部撤退させたが、五万余が残り
日本の大軍の残留は日米間の約束にもなく、米国の出兵目的にも反すると強烈な抗議
を受けます。

11月になるとドイツ帝国は崩壊し休戦を受諾、世界大戦は終わりました。
19年初頭 原内閣は撤兵を実施し、残るは二万四千となったが、出兵目的はドイツ勢力
の排除から治安の維持に変わってしまいます。

20年1月 米軍は西方の英・仏の撤兵にさきがけて撤兵してしまいます。日本軍は22年
まで(北樺太は25年まで)駐兵し、尼港事件では多数の犠牲を出すことになります。
十億円の国費と3500人の犠牲者を出し、いたずらに米国の対日警戒心を強め、ソヴィ
エト国民の反感を招いただけで虚しく撤兵しなければならなかったのである。

大江志乃夫は「日本陸軍はシベリア出兵に兵力とエネルギーと費用を浪費し、世界大
戦の研究から教訓を学ぶことを怠った。加えて、ゲリラ戦に巻き込まれた場合、戦争は
泥沼化し、勝利の展望が殆どなくなるという教訓さえも引き出せなかった。」と言っ
てます。

さらに「日露戦争を世界でも最新の編制、装備、戦法で戦った日本陸軍は、第一次大戦
後に世界で二流の陸軍に転落した。」とも言ってます。

帰趨の解からない内戦には手を出さない。内政不干渉が大切なのだが、日本陸軍は既
に中国の内戦にも深くかかわっているのである。


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