ロシア革命の影響

17年(大正6)のロシア三月革命は、ブルジョワジー(工場経営者)を中心とした臨時政
府を成立させたが、その性格上、なおも戦時特需を求めて戦争を継続します。

「パンと平和」を求める労働者・兵士・農民らは、ソヴィエト(権力に圧迫を加える
自治的権力機関)に結集します。

封印列車でドイツを通過して帰国したレーニンは、的確な指導でソヴィエト内での勢
力拡大に成功し11月7日臨時政府を打倒して社会主義政権を樹立します。十一月革命

翌日、平和を求めてレーニンは、無併合・無賠償・民族自決を全交戦国に訴えます。
ドイツは応ずるが、英・仏連合国側はこれを黙殺してしまいます。そこで新政権は帝
政時代の秘密外交文書を公表し、各列強の帝国主義的本性を暴露しました。

サイクス=ピコ協定は、ドイツに加担したトルコを、英・仏・露三国で分割すること
を約束した密約でしたが結局、この暴露によって実現しませんでした。

07年(明治40) に締結された日露協約の秘密部分も暴露されました。時の外務大臣
藤高明もその後任の石井菊次郎も「日英同盟」を弱めると反対したのだが、山県有朋
が強引に推進して成立させたのである。

その秘密部分とは、将来中国における日露両国の利権が第三国によって侵害された時
は、共同で戦い単独講和はしないという軍事同盟でした。

岡崎久彦は「その後の日英同盟の冷却化、米国の対日猜疑を促進することになり、日
本の孤立化への一つの原因となった。」と言っております。

17年11月ソヴィエト政権はトロッキーを代表として、独・墺とブレスト=リトフスク
(白ロシア)で単独講和会議を開きます。5ヶ月にわたる長い会議でしたが、18年3月
3日ソヴィエトは、多額の賠償金とポーランドウクライナフィンランドを失って
戦争から単独で離脱してしまいます。ドイツは東部の全兵力を西部戦線に投入します。

18年1月19日 選挙で2位(1位は農民代表のエス=エル)となったボリシェヴィキは、
憲法制定会議で「勤労人民の権利の宣言」が否決されたため、レーニンは武力でこの
議会を閉鎖・解散させます。

レーニンによって「当分の間」とされたボリシェヴィキ独裁は、労働者階級独裁から
一党独裁へ、やがてスターリンの個人独裁への道を辿るのである。


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