昭和陸軍暴走の引き金となった「参謀本部」の独立

明治11年12月 山県有朋は、陸軍省参謀局を廃止し新たに参謀本部を設置します。
これは自由民権運動の軍隊への影響を絶つため、軍令を政治から分離して天皇に直  
属することで、天皇に絶対服従する軍隊を完成させることにありました。

しかし陸軍卿を西郷従道に譲り参謀本部長となった山県は、誰も気づかぬうちに参  
議・右大臣を超えて太政大臣三条実美と肩をならべることになっていたのです。
半藤一利著「山県有朋」より

この軍令の行政(陸軍省)からの分離・独立が昭和陸軍暴走の直接の原因となること
に山県は、思いが至らなかったのであろうか? 

満州事変を経て満州国が建国された昭和7年、参謀本部は機密文書「統帥参考」を  
二部作成し特定の将校のみに閲覧を許します。

その内容を司馬遼太郎著「この国のかたち」第一巻から引用すると、
「俺達はじつは憲法外なのだ。」と明快に自己規定しているのである。
平時戦時を問わず統帥権は三権(立法・行政・司法)から独立しつづける存在、----
こうでもなければ、天皇の知らない間に満州事変をおこし、日中事変を長引かせ、
その間、ノモンハン事変をやり、太平洋戦争をひきおこすということが、できる筈
がない。----と

尚、昭和7年当時の参謀本部長は閑院宮載仁親王だが、二・二六事件の影のスポン  
サーで「皇道派」の重鎮「真崎甚三郎」参謀次長が、参謀本部の実権を握っていた  
ことを、敢えて付け加えます。

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