続 「参謀本部」

今回は、茨城大学名誉教授、大江志乃夫著「日本の参謀本部」から引用します。

参謀本部の設置の中心人物が『情報政治家』の山県であったことは、悪い伝統を持 
ち込む結果となった。参謀本部が軍事情報のみならず、本来は政略に属する謀略や情 
報政治にまで手を出すことになり、戦略の欠如を政略でカバーする傾向が生じた。

軍人政治家は多いが戦略家が出なかった日本陸軍の体質を、日本の参謀本部の起源  
が決定したものといえよう。」まさに私の溜飲が下がるご指摘です。

参謀本部設置当時の日本陸軍は、全く外征を意識していなかったと言い難いが、そ
の主要任務を外敵からの防衛にあるとしている。」

明治15年朝鮮の兵士の反日反乱『壬午軍乱』をきっかけに、明白に清国を対象とす
る軍備拡張の方針を打ち出し、特に海軍拡張に大きな比重をおきます。」

「この外征への転換に反対したのが、中将谷干城・中将鳥尾小弥太・中将三浦梧楼・
中将小沢武雄・少将曽我祐準・少将堀江芳介らであった。山県は彼らを陸軍から追放 
する暴挙にでます。陸軍を追われた将軍たちは、貴族院議員となって政界入りし、明 
治24年参謀本部廃止・専守防衛に向けた建議案を提出しましたが、『山県の陸軍』  
が反山県系の予備役将軍グループへの猛烈な切崩し工作の結果建議案は封殺され、政 
府も議会も知らされず、国民の目の届かないところで日清戦争に向けて準備がすすめ 
られるのである。」

目先しか見えず、戦略眼を持たず自己保身に汲々する山県を見るにつけ、私には「村田
 蔵六」=大村益次郎の早世が悔やまれてならない。

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