戦争へ直走る、日本・清国

清国北洋大臣李鴻章は、明治12年「日本に譲歩しても日本はロシアの侵入を防ぐ力  
はないのだから、むしろロシアに譲歩して日本を抑えさせた方が得策」と上奏。

明治15年7月朝鮮国の引退中の「大院君」の扇動による『壬午軍乱』が勃発します。
日本公使花房義質は重要書類と共に公使館に火を放って脱出。李鴻章は大院君を拉
致して北京の西南100キロの保定府に匿ってしまいます。軍乱じたいが李鴻章の陰謀
と見るべきか?

明治17年6月ヴェトナムをめぐる清仏戦争を奇貨として、同年12月朝鮮国内で『甲
申政変』が発生します。これは金玉均が日本の武力に頼ったクーデターであったが
閔妃の咄嗟の機転によって失敗に終り、金は日本に亡命します。尚この政変の筋書  きは福沢諭吉が書いたという説があります。

明治18年4月イギリス極東艦隊は朝鮮領の巨文島を占領します。『巨文島事件
これは親露傾向にあった朝鮮政府とロシア、さらに日本を牽制する為に打った李鴻
章の外交手腕であった。二年間にわたる英国の占領は、ロシアの南下、日本の朝鮮
進出を牽制し続けました。
この時こそ日本は朝鮮侵略を止め、専守防衛に徹するチャンスではなかったか?

明治19年夏 清国北洋艦隊が示威の意図をもって長崎を訪問します。
清国の兵隊は市街地で乱暴を働き、日本の警察と衝突、双方80余名の死傷者が出ま
す。結果、清国側の「警官の帯刀禁止」という要求を呑まされてしまいます。

以上は前出「李朝滅亡」及び岡崎久彦著「陸奥宗光とその時代」から引用しました。

日本の清国や朝鮮国に対する侮りは日本に対する侮りを呼び、結局戦争へと突き進
んでしまうのである。

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