「二〇三高地」の真相

第三軍司令官中将乃木希典は、旅順要塞の総攻撃を明治37年8月19日と決めます。
乃木の司令部は数日で奪れると思い、大本営はその旨、新聞発表するのだが、旅順
は数日でおちません。それどころかその後、百五十余日を費やし六万人(戦死二万)
の血を流させるはめになってしまいます。

要塞のコンクリートの厚さは1.3mもあり、それを打破るため東京湾観音崎砲台はじ
め全国の要塞から、28センチ榴弾砲十八門を急送。満州軍総参謀長 児玉源太郎(長
州)の作戦指導により、12月6日二〇三高地を占領して旅順港を見下ろすと、ナント                    敵の旅順艦隊はとうに潰れていました。これが真相なのです!

それは9月28日から10月18日にかけて28センチ砲を使い、旅順港を狙える場所から
海面を網の目のように区分けして、毎日順序よく撃ち込んだからで、この山越しの                                                                                砲撃を指揮したのが、海軍中尉 永野修身、のちの太平洋戦争開戦時の軍令部総長
でした。
以上は 司馬遼太郎著「殉死」及び半藤一利著「あの戦争と日本人」より引用

陸からの旅順港砲撃は、海軍からの要請で開始された作戦であることを思えば、当
然陸軍に報告すべきであったろうし、早めに作戦を中止していれば、死傷者を増大
させることは無かったろう。更にいえば、何故乃木は要塞を攻めるふりをして旅順
港を攻めなかったのか?怒りを抑えるのに苦労します。

歴史街道」11月号で歴史研究家の「河合敦」は次のようにいってます。
戦費を外債に頼っていた日本は、負ける訳にはいかず、「旅順攻防の勝敗が日露戦
争の流れを大きく左右する、極めて重大な戦いだったのです。」----と

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