日露戦争開戦前夜

明治33年6月末 義和団満州にも勢力を伸ばしていたので、ロシアは極東に大軍を
送り、10月には満州全域を占領してしまいます。

明治35年1月30日 ロンドンで日英同盟が締結されます。当時イギリスは、ボーア戦争
で国力を消耗し極東に力を注ぐことができずここに、光栄ある孤立は終わりました。

明治36年6月 東大の七博士らが桂首相に対露強硬論を提出します。彼らは国民に公
表する意図は無かったが、当局が世論操作のシンボルとしてそれを利用します。

第2次山県内閣、第4次伊藤内閣の海相だった「山本権兵衛」は桂内閣の海相に留
任しますが、その持論は「朝鮮は早々に放棄し、専守防衛とすべき。」であったこ
とを思うと残念でなりません。

明治36年11月 木材伐採を名目にロシア兵は、韓国に越境して龍岩浦を占拠して韓国
政府に租借を要求、拒否されてもそのまま占領と施設の建設を続けます。

明治36年12月英国は、イタリアで建造中の重巡二隻が竣工に近いという情報をくれ
ます。日本までの回航にはロシア艦隊の拿捕・撃沈の危険があったが、英国の重巡
が出動するなど保護されてこの「日進」「春日」は横須賀に無事入港します。
旅順砲撃では、この二艦のみが敵の主砲台の射程外からその砲台を撃ち込むことが
できたのです。

前出「小村寿太郎とその時代」及び隅谷三喜男著「日本の歴史」第22巻より

英米は貴重な情報だけでなく日本の起債まで引受け、辛うじて日露戦争に勝利するの だが、我々の祖父・祖母は慢性的な重税ばかりか、家族を戦場に駆り出され戦死・戦傷で塗炭の苦しみを味わったことを忘れてはならない。

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