「盧溝橋事件」の発端となった「北京議定書」
明治29年ロシアのニコライ二世戴冠式の列席を機に李鴻章は、300万ルーブルの賄賂
で日本に備えた、露清攻守同盟の密約を締結します。
明治31年 ドイツは独人宣教師殺害事件を奇貨とし膠州湾を占領、99年租借に成功。
ロシアは李鴻章・張蔭桓に賄賂を贈り旅順・大連を含む遼東半島を租借。
イギリスはアヘン戦争で植民地とした香港島・九竜半島南端に加え半島全域を租借。
明治32年 フランスは広州湾の租借、鉄道・鉱山開発権を獲得。
米国は、門戸開放政策続いて領土保全政策を宣言します。 まさに、列強は瀕死の巨象に群がるハイエナ・ハゲタカと化しました。
明治32年 キリスト教や列強の侵略から自衛のため、義和団が山東省に蜂起します。
翌年 義和団は北京に入城し各国公使館区域を包囲攻撃します。6月20日 西太后は 列強に宣戦。この時数十人の義勇兵を率いて居留民を守り抜いたのが、柴五郎中佐 (私の好きな会津人)である。
武力投入の困難なイギリスの日本政府への再三の出兵要請で、山県有朋内閣は一挙
に一万の大兵力を派遣。(北清事変)山県はイギリスに十分に恩を売ったのです。
明治34年 義和団事件鎮圧後「北京議定書」が締結され、列強は多額の賠償金と「
軍隊の北京常駐」を認めさせます。
この軍隊の北京常駐が、昭和12年7月7日午後十時すぎ、演習中の日本軍に数発の
実弾が撃ち込まれ、続けて十数発が撃ち込まれて、支那事変(日中戦争)のキッカケ
となります。
この「盧溝橋事件」はスターリンの遠大な戦略の一環で、毛沢東がその指令により
ゲリラ戦を仕掛け、中国大陸に引込んで日本軍の消耗を狙ったのである。