日本を滅ぼした 「軍部大臣現役武官制」
明治31年6月 初の政党内閣、大隈重信を首相兼外務大臣、板垣退助を内務大臣とす
る「隈板内閣」が誕生します。しかし尾崎行雄(咢堂)文相の拝金主義を批判した
「もし日本が共和国であれば----」という発言が災いし辞任に追い込まれ、さらに 大隈・板垣間の軋轢もあって、僅か132日で崩壊します。
次の第二次「山県有朋内閣」の山県は反山県系の元軍人が、政党に拠って陸軍大臣と なるのを恐れ、明治34年 陸・海軍の大臣・次官は現役将官とする省制に変更してし まいます。この軍部大臣現役武官制は、内閣の「生殺与奪の権」を軍部が握ることと なり、昭和陸軍の大暴走を招く直接の原因となりました。岡崎久彦著「小村寿太郎と
その時代」より
大正元年12月1日 西園寺公望首相は陸軍の『二個師団増設案』が閣議で否決された
ことを上原勇作(薩摩)陸相に申し渡すと、上原は辞表を天皇に直接提出します。
3日 西園寺は山県に後任陸相を推薦するよう要請するも黙殺されてしまいます。
5日 西園寺内閣は、やむなく総辞職せざるをえませんでした。これが『大正政変』
の導火線となります。
大正2年2月 山本権兵衛(薩摩)内閣が発足します。山本は現役武官制を予備役・
後備役の大将・中将に拡大します。しかし参謀本部(本部長は長谷川好道=長州)
は陸相の権限の一部を参謀本部に移すという暴挙にでます。
木越安綱陸相はこの参謀本部の策動にノイローゼになり、次の楠瀬幸彦(土佐)陸相
閔妃暗殺で有名な---が強行します。今井清一著「日本の歴史」第23巻より
昭和11年の二・二六事件後は「軍部が絶えず二・二六の再発をちらつかせ政・財・
言論界を脅迫した。国民の眼にはわからない上層部で静かに確実に進行していった」
松本清張著「二・二六事件」--広田弘毅内閣はアッサリ現役武官制を復活させます。
昭和12年1月 宇垣一成に組閣の大命が降ります。しかし石原莞爾らを先頭とする
宇垣反対の猛運動があり、陸軍は陸軍大臣を拒否、宇垣の組閣は流産となります。
広田内閣が現役武官制を復活しなければ、宇垣が陸軍大臣を兼務することで組閣でき
たのです。