天皇の意志で米内内閣誕生!

阿部内閣崩壊の直前40年(昭和15)1月7日武藤章軍務局長は近衛文麿を訪ね陸軍の総
意として次期首相就任を要請、固辞する近衛は13日畑陸相宇垣一成を推挙します。

湯浅倉平内大臣は、天皇が「米内光政はどうか」と洩らされて以来、西園寺公望の支
持を得て米内内閣成立に邁進。陸軍にとって米内は防共協定強化に反対した不倶戴天
の敵なのだ。憂慮した天皇は畑俊六陸相に米内内閣への協力を要請。米内は1月16日
陸相と吉田海相を留任させ、外相は野村を更迭し有田八郎を再起用して組閣します。

軍事ジャーナリスト高宮太平は「平沼・近衛・木戸らは陸軍に不満を洩らすが真正面
から抑えようとしない。抑えれば自分の生命が危ういという怯懦もあったが、権勢欲
があるから思い切ったことができない。だが湯浅は捨て身だった。君国の将来を念ず
るほか、一身の利害栄達など眼中になかったのである」と湯浅の勇気を讃えています。

2月2日衆議院本会議で民政党斉藤隆夫が気骨ある代表質問を行います。「徒に聖戦
の美名に隠れて国民的犠牲を閑却し、曰く国際正義、曰く共存共栄、曰く世界平和、
かくの如き雲を掴むような文字を並べ----」「支那事変は既に二年半になるが、十万
の英霊を出しても解決しない。どう戦争解決するか処理案を示せ」

武藤軍務局長は「これは聞き捨てならぬ、政府はどう始末する気か」と内閣にねじ込
み、海軍もこれに同調する気配を示します。これに油を注いで大きな政治問題に発展
させたのは、親軍代議士の連中が軍部の意向を忖度して動いたためでした。

民政党総裁町田は斉藤の離党で諒解を取付けようとしたが、陸軍は議員除名を要求、
海軍も強硬論が支配的であった。3月7日衆議院本会議は斉藤の除名を議決します。

斉藤除名は、大政翼賛会という日本的「一国一党」体制への一歩を進めたに過ぎない。
斉藤は42年の翼賛選挙では非推薦で当選。敗戦後第一次吉田内閣の国務大臣となる。


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