軍部大臣現役武官制に潰された米内内閣

大部隊をポーランドから西に転じた独軍は40年(昭和15)4月9日デンマーク・ノルウ
ェー領内に侵入。ここに昨年9月3日の英仏の宣戦布告以来、両軍の睨み合いによっ
て保たれていた西部戦線の均衡状態は一瞬にして破られます。

5月独軍はオランダ・ルクセンブルク・ベルギー・仏軍の要塞マジノ線も突破。5月
末には三○万の英軍をダンケルクに追落し、6月14日パリを占領。ドイツは仏の北半
分を直接占領し、南半分は鉱泉都市ヴィシーにペタンを首班とする傀儡政権を樹立。

独ソ不可侵条約成立以来、鳴りをひそめていた日本陸軍枢軸派の動きが活発化。今こ
そ独と提携し、マレー半島インドシナ東インド諸島など英・仏・蘭の植民地を日
本の勢力範囲におく好機であり、日本は一路南進に邁進すべきという議論が沸騰。

つまり、見れども見えぬ貧乏陸軍は火事場泥棒を働こうというのです。

政党間には近衛を担いで挙国一致の新政党を創ろうという運動が起り、武藤軍務局長
はこの運動を倒閣の圧力に利用しようと意図。7月4日参謀本部は「挙国強力なる内閣」を組織する要望書を陸相に提出。阿南惟幾陸軍次官も木戸内大臣に内閣更迭通知。

大戦不介入方針の米内は「ヒトラーは一代身上だ。三千年の歴史ある日本の天皇と一
代身上者と手を握らせようなどとはとんでもない話だ」と語ったという。

陸相天皇の意を体して、阿南や武藤の動きに加わらなかったが、突然態度を豹変
7月16日単独辞表を提出。米内は畑の心事を理解していて畑の自殺を心配したという。
米内の後任陸相推薦の要請に、陸軍三長官会議は拒否。7月22日米内内閣総辞職

畑の辞任の真相は参謀総長閑院宮の命令であった。畑はこのことを一切口外せず、戦
後の東京裁判でも沈黙を守ったが、当時の参謀次長中島鉄蔵の証言でやっと判明した。

閑院宮載仁親王(当時75歳)が、自己の生命を惜しんで畑陸相に命令したのであろう。
皇族だったら「名こそ惜しめ」と言いたい。45年5月に病死したためA級戦犯を免る。


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