悲劇の人「広田弘毅」

天皇の激怒によって終息した二・二六事件に対する陸軍の反省は皆無でした。陸軍は
これを逆手にとって二・二六は政・財界の罪だとし、その改革を迫る態度に出ます。

岡田内閣の総辞職を受け西園寺は近衛文麿を推薦したが病気を理由に辞退。西園寺は
近衛と吉田茂に命じて、渋る広田弘毅外相を説得させ首相就任を承諾させます。

広田の組閣の際、吉田茂外相・下村宏拓相・小原法相・川崎内相らの候補者に、陸軍
は強硬に反対し広田の譲歩を強要。内閣は36年(昭和11)3月9日難産の末誕生。寺内
寿一陸相はロボットで実権は、梅津美治郎次官・軍務局武藤章中佐らが掌握します。

皇道派のドン荒木貞夫・真崎甚三郎らを予備役に追い払った陸軍は、彼らの復活を不
能とするため、軍部大臣現役武官制を要求、同年5月18日公布。また馬場硏一蔵相も
軍事費の増大を歯止めなく認め、この内閣の汚点となります。

陸軍は「北守南進」を固持する海軍を説得して、国家方針を「南北併進」とすること
に成功し同年8月7日「国策の基準」を策定。外交方針で対米英親善を唱いながら南
方進出を強く表面に押出します。

白鳥敏夫を中心とする外務省の親独・反米英的なグループと陸軍の幕僚が結びつき同
年11月 赤化対策として、日独伊三国同盟に繋がる「日独防共協定」を締結します。

商工省工務局長岸信介はこの年満州国政府実業部(のち産業部に改組)次長として渡満
します。

広田組閣の頃、美濃部達吉天皇機関説の源流は、枢密院議長一木喜徳郎にあること
から平沼騏一郎一派に攻撃されて議長を辞任。副議長平沼は議長就任に当り国本社会
長を辞任します。

同年6月国本社を解散。その理由は荒木貞夫が同社の理事であったからともいわれる。



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