陸軍大臣は畑俊六か梅津美治郎にせよ !

39年(昭和14)4月政友会は軍部協力を推進する中島知久平らの革新派と、政党を守ろ
うとする鳩山一郎らの正統派とに分裂。革新派が軍部接近を始めると、対抗上正統派
も親軍推進者久原房之助が総裁となり、久原派と鳩山派の対立が激化します。

三国同盟問題で陸軍と海軍の対立を孕んだ数十回に及ぶ五相会議は、同年8月23日の
独ソ不可侵条約締結によって徒労に終っただけでなく平沼内閣の総辞職を惹起します。

8月28日陸軍の支持する阿部信行大将が組閣を命じられ、天皇は阿部に陸相は畑俊六
梅津美治郎に、外交は英米と協調、治安保持に内相・司法相の人選は慎重にと前例
のない三条件を呈示。前陸相板垣征四郎や元陸相杉山元への不信感からでした。

米内前海相は、次官山本五十六の暗殺を慮り連合艦隊司令長官に、山本と同期の吉田
善吾を海相に推薦。陸相天皇の指示通り前侍従武官畑俊六、外相には首相が一時兼
任後親英米派の海軍大将野村吉三郎が就任、破棄された日米通商航海条約緩和に。

9月1日ドイツの大部隊がポーランド領内に侵入3日英仏が独に宣戦布告。ここに第二次世界大戦が勃発。4日阿部内閣は大戦不介入・支那事変の早期解決を声明発表。

支那事変の長期化と39年の旱魃は食糧危機を招き、加えて大戦勃発で海外の物価高と
相まって物価騰貴を招きます。米不足対策として11月政府は、公定米価を石当り五円の値上げを断行、賃金が固定されている国民生活は困窮。阿部内閣への不満は最高潮。

親元の陸軍はあまりの不人気に倒閣に動き国会も退陣を勧告。40年1月14日阿部は衆
議院解散を考えたが畑陸相の反対で内閣総辞職。僅か四ヵ月半の短命内閣でした。

陸軍が解散総選挙を回避したのは、国民不満の高揚から選挙ともなれば反軍反戦的言
動が横行することを恐れたからである。


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