近衛文麿の再登場!

40年(昭和15)6月24日近衛の「自分は今回枢密院議長を拝辞し、独のナチス党や伊の
ファシスタ党を模した国民組織を結成する」との声明で政界・言論界・右翼・軍部は
相次いでこれを支持。国内は新体制の激しい渦に巻き込まれます。

天皇内大臣木戸幸一に「自分はなお米内を信任している」と洩らされたが、これを
木戸は故意に伝えず、米内が辞表を持って参内した時に初めて伝えた。木戸は近衛と
同じく大勢順応派であり、盟友近衛に後を継がせるためにそうしたことは考えられる。

近衛に失望していた西園寺は、重臣会議が一致して近衛を支持したという結論を伝え
ても「この奉答は御免蒙りたい」と謝絶。「今頃人気で政治をやろうなんて時代遅れ
だ」と洩らしたという。ヒトラーの後追いの真似をしても駄目だという趣旨である。

武藤軍務局長らは畑陸相を参内させ、陸軍大臣東条英機中将になりますと上奏。こ
の陸軍のフライングに呆れた天皇は「まだ組閣は終わっていないではないか」と非難。

7月22日近衛は陸相を東条、海相は吉田善吾を留任させ、国際連盟脱退演説で人気の
高い松岡洋右を外相として組閣。この四相で内閣の基本方針を確認。それは陸軍主張
の外交路線を大幅採用し軍部独走を抑えるどころか軍部とピッタリという決定でした。

新体制運動の大波の中、7月6日社会大衆党が16日政友会久原・鳩山両派が25日民政
党永井一派が26日国民同盟が30日政友会中島派と政党は次々に解党。新党が形をなし
ていない段階で解党が行われ、史上初の無党状態は軍部には好都合な結果となる。

天皇も近衛に「憲法の精神に抵触しやせんか」と注意。貴族院もソヴィエト流と批判。
近衛は各勢力の批判と主導権争いに揉みくちゃにされ、当初の意気込みを喪失。結局、
精神運動だけとなり10月12日、長い胎動の末大政翼賛会が発足。

この大政翼賛会は、上意下達、下意上通の機関となることを目的としたが、やがて東
条内閣の戦時体制下では、一方的な上意下達の機関として役割を果すことになる。

近衛の再登場で、陸軍の暴走を抑止できるのは、唯一海軍だけとなったのである。


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