富永恭次と佐藤賢了の下剋上

支那事変が長期攻囲段階に入ると占領地を拡げるより、前線の敵に一撃を加えて原駐
屯地に引揚げる作戦をとると共に、仏印ビルマの援蒋ルート遮断が課題となります。

外務省も援蒋物資輸送の禁止を要求してフランス政府と交渉を続け、ドイツの勝利も
あって40年(昭和15)6月17日カトルー仏印総督は援蒋物資の禁輸と日本監視団(西原
一策少将)の派遣を承認。目的を達しても仏印通過・飛行場使用と要求を拡大します。

カトルーは日本の要求の一部は受諾し、仏印の領土保全と引換えに蒋介石に対する防
守同盟を提案。ヴィシ―政府はカトルーを罷免しフランス東洋艦隊司令長官ドク―中
将を後任の総督に任命。これまでの西原・カトルー交渉の内容を無効とします。

この為8月1日から松岡外相とアンリ駐日仏大使との交渉開始。30日北部仏印進駐は
臨時的で仏の主権尊重を約束した松岡・アンリ協定成立。がドク―は遷延策を行使。
9月2日日本軍は仏印在住の全邦人に総引揚げの命令を出し、国境監視隊もハノイ
集結。この日本軍の脅しに仏印側も交渉に応じ22日ついに現地細目協定が成立します。

が23日午前零時を待たず一部日本軍が越境して、仏印軍との間で衝突発生。参謀総長
の命令を装った、参謀本部作戦部長富永恭次と南支那方面軍参謀副長佐藤賢了下剋上でした。平和進駐の積りが侵略となり、日本は世界の非難を浴びることになります。

23日米国のハル国務長官は「仏印進駐は現状を破壊するものであり、かつ威圧によっ
て達成された」と非難。英国もさきに三ヵ月に限って認めたビルマルート閉鎖の期限
が到来すると、10月8日ビルマルート再開を日本政府に通告。この英国の強硬姿勢の
背景には独空軍に勝利したチャーチル首相の自負がありました。

9月15日独空軍は戦闘機700機、爆撃機400機でロンドンを総攻撃。英空軍は僅
か戦闘機300機で迎え撃ち、完璧に独空軍を叩きのめしました。英空軍のスピット
ファイアの能力が断然違ったのです。

連戦連勝の筈だったドイツ軍が敗退したことを、日本の陸軍も海軍も何故か重要視し
ないのである。相変わらず見れども見えずの繰り返しなのだ!


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