海軍の豹変によって日独伊三国同盟成立!

近衛首相は当時の国際情勢、独ソが親善関係にあり、ヨーロッパの殆どを独が掌握し
ている情勢のもとでは、独と結び、独を仲介としてソ連とも結び日独ソの連携をつく
ることで対英米戦を回避できると考えます。当時英本土猛爆にも係らず英国を屈服さ
せる見通しがたたず、独は長期戦に備えて日本に接近するようになります。

加えて40年(昭和15)8月20日、米国が駆逐艦50隻を英国に供与すること、英国が米
国に基地貸与を認めることを発表。米国を牽制しその参戦阻止が焦眉の急となります。

松岡洋右が外相に就任するや、8月1日オット駐日独大使を招きドイツの意向を打診。
松岡とスターマー公使の会談は9月9日から始まり、たちまち試案が纏まり19日には
成文を御前会議で審議するところまで進み、北部仏印武力進駐から僅か四日後の27日
ベルリンで日独伊三国同盟成立。米国はこれらを睨んで徴兵制を実施します。

近衛の同盟成立の報に天皇は「米国と戦争となって、負けたならどうなるか私は非常
に憂慮している」と御下問されたという。

ではこの間海軍はどうしていたか?米内・山本・井上の流れを汲む吉田海相は「独と
の同盟は、英米と敵になることであり亡国への道だ」と主張。日米通商航海条約破棄
に伴う石油・屑鉄輸出許可制に動揺する海軍の対米強硬派は、ベトナムに基地を設け
る必要があると主張。吉田は眠れない夜が続き殆どノイローゼに陥ります。

9月1日興亜院政務部第一課長石川信吾大佐--時代遅れの戦艦大和や武蔵の建造を提案--が吉田を訪ね「こうなれば決心の問題です。大臣の肚ひとつです」と強引に談判。
下剋上そのものです。5日吉田は入院辞職し後任は及川古志郎となります。

9月13日の海軍首脳会議は、軍事同盟に反対すれば近衛内閣は崩壊する恐れがあり、
予算獲得を裏面の目的として同盟締結に賛成。海軍は金のために魂を売ったのである。

9月15日ロンドン空爆で大敗したヒトラーは17日「B軍団は本日をもって東方に移動
すべし」という重大決定をします。B軍団とは英本土上陸の際の最強力部隊である。

近衛・松岡やヒトラーはこの条約が米国の参戦防止に役立つと信じていたが大きな誤
りであった。米国は道徳的原則と国民感情の上に立って戦争する国なのである。


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