米国の譲歩による日米諒解案

40年(昭和15)7月22日発足した近衛内閣は二ヵ月後の9月27日三国同盟を締結します。
駐日米大使グル―は10月1日の日記に「これは過去に私の知っている日本ではない」
と記します。同月ノックス米海軍長官は三国同盟の挑発に応ずると演説し太平洋艦隊
の強化に着手、更に極東在住の米人に引揚げが勧告され日米関係は急速に緊迫。

11月末頃、ルーズベルト米大統領の選挙事務長であるウォルシュ神父とドラウト神父
が、日米調整の瀬踏みのため近衛側近の産業組合中央金庫理事の井川忠雄を訪問。

外相松岡は両神父の話に冷淡だったが、近衛は関心をもって陸軍の内意を確認。松岡
は41年2月元外相野村吉三郎海軍大将を駐米大使に、駐独大使に大島浩を起用。スタ
ーマーの日ソ国交調整の正直な仲買人という言を信頼した松岡は3月12日訪ソします。

両神父の背後にはウォーカー郵政長官がありハル国務長官ルーズベルト大統領に通
じており、同年2月には井川が3月には陸軍省軍事課長岩畔豪雄大佐が渡米。野村を
交え苦心の末4月16日日米諒解案が決定。中国側の満州国承認、蒋介石汪兆銘の政
府を合体後撤兵、非併合非賠償の和平を米大統領が蒋に勧告するという内容でした。

出張中の松岡に代って外相を兼任していた近衛はこれを大歓迎。18日夜政府と統帥部
の連絡会議では東条陸相参謀総長杉山元(昨年10月閑院宮辞任後就任)も、及川海相
軍令部総長永野修身(4月伏見宮博恭王辞任後就任)も全員賛成。飛付いたのである。

すぐに原則的賛成を返電しろという意見もあったが、大橋外務次官は松岡外相の帰京
を待つよう強硬に主張したため、野村大使への回答は延期されます。

国際連盟が一致(タイのみ棄権)して否認した満州国を、蒋介石が承認するとはとても
思えないのだが、陸軍強硬派の首領、東条英機陸相が賛成するとは意外である。


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