角福戦争

佐藤栄作首相は70年10月29日の党大会で、投票の4分の3近い353票を得て四選を果たした。田中角栄は自己の多数派工作の準備の時間を稼ぐために佐藤四選に全力を挙げた。71年6月の参院選のあと、参院自民党を牛耳っていた重宗雄三が、野党と組んだ自民党河野謙三に議長の座を追われた。河野は重宗議長の独裁ぶり、入閣推薦者から金品を受け取っているとの噂に痛憤し、参院改革を訴えての勝利であった。

田中は72年初めから、かねて布石を打ってきた田中派結成の具体化に乗り出す。狙いを定めたのは重宗王国が崩壊した参院である。もともと参院の全国区選出議員は組織、団体の代表が多く特定の派閥色の強い議員は少ない。衆院には佐藤直系議員が多く、その目を盗みながらの多数派工作だった田中派は結成時参院40人、衆院20数人と参院に重点を置いた派閥構成となった。

田中派参院議員が多かったのは竹下登(経世会)にも引継がれ、小沢一郎が92年の会長争いで小渕恵三に敗れたのも、自民党参院のドンと呼ばれた青木幹雄が竹下の指示で参院を小渕でまとめたためといわれる。

72年6月17日の自民党両院議員総会で佐藤は引退を表明するが、自民党総裁の後継者を指名しなかった。総裁の座は佐藤政権を支えた田中と福田赳夫によって争われ角福戦争と呼ばれた。佐藤は実兄の岸派の後継者で福田派を主宰する福田に譲りたいと考えていた。福田も禅譲を期待していて多数派工作に動くことはなかった。

田中は資金力など持てる力を総動員して自分の属する佐藤派の大部分を味方につけ、佐藤派は田中派82人と福田支持の保利茂系の22人に分裂する。

旧池田派を引き継いだ大平正芳は池田内閣当時から田中の盟友で、三木武夫ニクソン・ショック以来急務となった日中国交回復のためには佐藤亜流の福田よりは田中と考えた。大平も三木も総裁選に立候補したが、決戦投票では田中につく。中曽根康弘は上州出身のよしみで福田につくと見られたが、自らの立候補を取り止め田中についた。田中側からの強力な工作に応じたとする説も本人の否定に係わらず根強い。

72年7月5日の党大会で第一回投票では田中は過半数を得られなかったが、決戦投票で田中が282票で190票の福田を圧倒した。総裁選の直前に売り出された田中の「日本列島改造論」は全国特に過疎の進む地方に開発の夢を振りまきベストセラーとなった。


レース結果共鳴チェック