ニクソン・ショック

佐藤内閣と自民党は70年11月24日から開いた臨時国会で、公害対策基本法改正をはじめ14の公害関係法の立法を果した。しかし流石の佐藤政権もこの頃は落日を迎えていた。日米繊維問題である。日本の繊維輸出に押しまくられた米国が輸出規制を求めた問題で、69年の沖縄返還交渉に佐藤は核抜きの保証とひきかえに応じたのである。

佐藤は正攻法の交渉しかできない大平正芳宮沢喜一通産相を更迭し田中角栄を起用して事態解決に当らせ71年10月15日輸出規制の日米繊維協定が成立。米国の要求通りの解決に当り政府は当初の輸出自主規制に751億円の救済融資、のち政府間の繊維協定に1,278億円を追加融資して国内企業の織機を回収、生産力を削減させた。

国連の中国代表権を台湾から中国へ移すべしという国際世論は、共産圏のみならず多数の非同盟諸国、特にアジア、アフリカも加わって増大の一途を辿った。台湾を承認している手前、佐藤は71年7月の国連総会で非同盟諸国に派遣している大使を総動員して多数派工作を繰り広げたが惨敗してしまう。

この時米国は表向きは日本に同調しながら、採決目前にニクソン訪中の準備にキッシンジャー補佐官の訪中を発表(ニクソン・ショック)中国加盟への雪崩に手を貸すという日本から見れば裏切りを平然とやってのけたのである。日本は単に負けただけでなく国際的孤立のイメージを際立たせる結果となった。このあと、佐藤は「日中正常化はかねてからの念願であった」という手の平を返したようなコメントを出すのである。

この背景について孫崎亨は12年7月31日に外務省が公開した外交文書から、繊維問題の密約をなかなか履行しない佐藤に激怒したニクソンが数々の報復を仕掛けた。ニクソンは訪中の発表を秘匿しただけでなく訪中後、尖閣問題についても日本支持の立場を捨て曖昧な態度をとるようになったと言う。

二つ目のニクソン・ショックは71年8月15日に訪れた。ニクソンは金とドルの交換を一時停止し10%の輸入課徴金を実施するなどのドル防衛策を発表。1ドル360円の固定相場という実質的な円安によって輸出を伸ばしていた日本経済への衝撃は強かった。

8月16日から一週間閉鎖したヨーロッパの為替市場と違って、日本政府と日銀は東京市場を開けたままドルを買い支えたが、結局それは失敗し8月28日変動相場制に移らないわけにはいかなくなる。

12月17日からスミソニアン博物館で開かれた10ヶ国蔵相会議で円の基準相場は1ドル308円と決定。通貨危機の一連の失敗は大量のドルが流れ込み、企業の資金をだぶつかせ、のちの狂乱物価をもたらす一つの原因になるのである。


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