沖縄返還

沖縄返還佐藤栄作首相の強い意志で実現したものでなく、米国の極東軍事戦略が変り、沖縄は日本に統治させ軍事機能だけを維持した方が米国にとって都合が良くなってきたからである。

佐藤は日本側の要求が核抜きになるか核付きで良いとするか白紙だと言い続けたが、67年12月11日の衆院予算委で、社会党成田知巳前書記長の質問に答えて「私どもは核の三原則、核を製造せず、核を持たない、持込みを許さない、これはハッキリ言っている」と断言。

米側と交渉に当ったのは外務省ではなく京都産業大学教授若泉敬国務長官キッシンジャーとの直接ルートだった。両者は緊急事態が発生した場合、嘉手納、辺野古等の基地に核装備のナイキ・ハーキュリーズ部隊を配備することについて、日本政府が遅滞なく承諾する旨の秘密合意議事録を作成。

69年11月21日ホワイトハウスで佐藤とニクソン大統領が返還協定に署名した後、別室で佐藤は核再持込みに関する秘密合意議事録にサインした。09年12月佐藤の次男信二(元通産相)が自宅で佐藤の遺品を整理していた時発見したとしてこの文書を公開。

また毎日新聞社政治部記者西山太吉が入手して、社会党横路孝弘議員に渡して問題となった外務省密約事件も明るみに出た。これは返還の際、軍用地を原状回復して引渡す費用400万ドルについて、米上院が負担できないと言うので愛知揆一外相が「米国が支払ったように見せかけ、日本が支払う」という姑息な密約が暴露された。

したたかな米国は核抜きに拘る日本政府の足元を見透かしていたのである。そもそも核弾頭および運搬手段の発達により、大陸間の長距離弾頭弾あるいは原子力潜水艦からの中距離弾頭弾が核戦略体系の中枢を占めるようになり、核を沖縄に配備する必要が無くなっていたのである。

72年国家公務員法違反容疑で外務省の女性事務官に続いて西山も逮捕され、一審で無罪(事務官は有罪、控訴せず確定)二審で逆転有罪、78年最高裁は懲役4ヶ月・執行猶予1年と判決。密約を裏づける米公文書の報道が相次ぐ中、05年西山は謝罪と損害賠償を国に求めて提訴、10年4月完全に勝訴する。

72年5月15日沖縄の本土復帰が果され、佐藤は沖縄返還を「核抜き本土並み」で実現。在任中の「非核三原則」が評価されて74年ノーベル平和賞を受賞。その背景には元国連大使加瀬俊一らにロビー活動させたと証言する人が複数いる。堂々と胸を張っての受賞とはいえないのである。


レース結果共鳴チェック