公害と黒い霧事件

佐藤栄作が政権を握っていた60年代後半、様々な公害が深刻な問題になった。奇病とされた水俣病が、新日本窒素水俣工場のアセトアルデヒト製造工程で排出される有機水銀が魚介を介して人体に入って起ることが59年熊本大学医学部などの医師によって明かにされた。だが企業も労組も政府も真相解明を妨害するのである。

65年阿賀野川流域で昭和電工の廃水によって起きる同じ症状の新潟水俣病が発見された。厚生省が二つの水俣病公害病に認定したのは、ようやく68年9月26日のことだった。この認定により一定の療養費・補償費などが支給された。これ以前67年4月には富山県イタイイタイ病三井金属神岡鉱業所の廃水によって起き、同年9月には四日市ぜんそくの患者らが石油コンビナート6社に慰謝料を求め初の公害訴訟を提起。

この間、66年から5年間で国民総生産(GNP)は実質で1.74倍に増え、実質年平均11.64%もの高度成長が維持され、68年には日本のGNPは西独を抜いて米国に次ぐ第二位となり以後その地位を保つ。

佐藤内閣は7年8ヵ月にわたり反主流派からの攻撃を受けない政権であった。その理由に佐藤に敵対するライバルがいなくなった幸運が指摘される。まず64年5月大野伴睦が死去。65年7月河野一郎が急死。確執もあった池田勇人が同年8月世を去った。佐藤にとって最初に訪れた危機は政敵によるものでなく、自民党の代議士や自分が任命した閣僚の不行跡による黒い霧事件であった。

66年8月5日自民党代議士田中彰治が、国有地払下げで国際興業社主小佐野賢治から1億円を脅し取った疑いで逮捕され、運輸相荒船清十郎が10月1日の国鉄ダイヤ改正高崎線急行列車を自己の選挙区内の深谷駅に停車するよう原案を改めさせた。9月2日には防衛庁長官上林山栄吉が統幕議長らを従え鹿児島にお国入りし自衛隊音楽隊を先頭にパレード。農相松野頼三が娘夫婦らと外国を官費旅行。共和製糖グループの不正融資などが次々に明るみに出た。

野党は黒い霧を理由に解散を迫り、審議をボイコットしたため佐藤も衆院解散に踏み切った。67年1月29日の総選挙の自民党の結果は−14議席の280で敗北感はなくむしろ安堵感が漲ったのである。この選挙では宗教法人創価学会を母胎とする公明党衆院に進出し25人を当選させます。

51年4月マ元帥が更迭され、帰国後の議会証言で「日本人はまだ12歳だ」と発言したが、日本の真の民主主義実現はあまりにも遠い。


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