河野邸焼打ち事件

池田内閣の所得倍増政策で浮足立っていた63年7月15日憂国同志会を主宰する野村秋介(28歳)は、同会員松野卓夫と共に河野一郎建設相の新築まもない私邸に拳銃をもって押入り秘書や家人を安全な場所に追いやり、ガソリンを散布して放火、全焼させた。

河野の利権あさりの一例が那須御用邸に隣接する国有林の払下げで、17万6千坪の土地を最終的に買取ったのは恵比寿商事で、その社長が河野の妻照子だった。それに加えて宮内庁と恵比寿商事との間に境界線争いが起き、恵比寿商事側が雑木林を焼払いその火が御用邸の林の一部に燃え移り右翼関係者に河野攻撃の火の手があがる。

野村の狙いは、河野を叩くことで自民党の腐敗権力を撃ち、反共を旗印に自民党・財界を補完し戦後体制の維持・強化に貢献してきた戦後右翼に警鐘を鳴らすことにあった。慌てた河野は親しい児玉誉士夫を担ぎ出す。児玉はホテルオークラ河野一郎君を囲む会を開催、右翼関係者を招いて河野に疑問点をぶつけることで鎮静化を図る。

池田は総裁に三選されたが、まもなく喉頭ガンが判明、東京オリンピック閉会の翌日64年10月25日に退陣を表明。池田は後継者裁定に客観性を持たせるため川島正次郎副総裁・三木武夫幹事長に党内の意見を聴取させた。河野は後継者指名に自信があった。しかし大磯に隠棲していた吉田茂が上京。新橋の料亭山口に陣取り、財界人永野重雄、小林中、水野茂夫らを動員して佐藤栄作擁立運動を展開。結局池田は佐藤を指名。

前年11月21日の総選挙で河野は自派の拡張を図るため、建設相の肩書を使って新人を擁立。河野派は33人から45人となったが、他派では苦戦したり落選した者も多く(石橋湛山も落選)党内に敵をつくることになり人望を大きく失っていたのである。

焼打ち事件で懲役12年の刑に服した野村は、77年3月3日経団連を襲撃し懲役6年の判決を受け、92年7月参院選に立候補。野村の選挙母体「風の会」を週刊朝日に連載中の「山藤章二のブラック・アングル」が「虱(シラミ)の会」と揶揄。野村は一片の謝罪表明でなく公開の場での討論を要求。築地にある朝日新聞本社は難色を示す。野村は93年10月20日同社役員応接室で自らの身体に三発の銃弾を撃ち込む。

右翼が反体制色を強めた背景には、自民党の金権腐敗政治が露呈してきたこと、更に経済至上主義による自然破壊、公害などの高度成長の歪みが増大、深刻化してきたことがある。


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