浅沼稲次郎暗殺

岸信介の後継総裁選挙には、池田勇人大野伴睦石井光次郎松村謙三、藤山愛一郎が出馬。岸はいったん派閥を解散して、大野からの約束履行の要求をはぐらかし最後には池田に票をまわして流れを決めた(60年7月14日) 大野は政友会の院外団から出発し、戦後の自由党設立、保守合同に活躍した寝業師で、しょせんは床の間に置くには違和感が強い人物だったので、岸は巧みに約束から逃げたのである。

孤立した河野一郎は新党結成の決意を固め、8月春秋会の勉強会と称し派閥の全員を軽井沢に招集。しかし河野の思惑に反して同調する者は6〜7人。皆、党の公認が欲しいのである。後日、河野は大野、永田雅一らの説得を受入れ新党結成を断念。一転池田に接近。池田への全面協力を約束、池田も河野を厚く処遇した。61年7月の改造人事で農相、62年7月建設相、63年7月建設相留任、12月建設相留任、64年7月国務相(オリンピック担当)を歴任する。

池田は出発の最初から低姿勢で寛容と忍耐を掲げ、新政策は池田がブレーンらと研究していた10年で国民所得を二倍にという所得倍増政策でした。池田と前尾繁三郎大平正芳宮沢喜一ら側近が演出した転換であった。安保の余燼は急速に冷え込む。

岸から池田へ首相が代ったことで60年10月17日召集の臨時国会が開かれれば解散になる予定であった。そのため東京都選管とNHKなどが主催して10月12日自民、社会、民社三党党首の立会演説会が日比谷公会堂で開かれた。社会党委員長浅沼稲次郎の演説の最中、舞台の袖から右翼の山口二矢(17歳)が飛び出して浅沼を刺した。殆ど即死。

浅沼は安保闘争のさなかの60年3月臨時党大会で河上丈太郎を破って委員長になった。二人はともに右派の、しかも同じ河上派だったが浅沼の59年3月、中国訪問での「米帝国主義は日中人民共同の敵」発言などを評価した左派の支援で浅沼が勝ったのである。

山口が愛国党赤尾敏の演説に感銘し入党したのは59年5月10日で、果して愛国党の運動で左翼勢力を阻止できるかと疑問を抱き、60年5月29日同党を脱党。新たに全アジア反共青年連盟を組織して凶行に及んだのである。山口の暗殺リストには浅沼のほか日教組小林委員長、野坂参三、それに石橋湛山河野一郎まで載っていたのである。山口は獄中で自殺。


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