安保闘争

岸信介は追放解除となって日本再建連盟をつくって以来、占領軍の圧力でつくられた諸制度特に憲法日米安保条約を正すことを政治的使命として自らに課した。その二大課題は日本が戦前並みの軍事国家に復活すると、岸の履歴と相まって多くの国民は不安を募らせる。岸にとって社会党が三分の一の議席を占めた以上、改憲は諦めるほかなく「安保」が残ったのである。

岸首相と藤山愛一郎外相が纏めた新安保は、米軍の配置や行動について政府間で事前協議でき、日本の内乱に米軍が出動できる部分を削ったが、在日米軍は日本以外の極東地域の防衛にも任ずることになった。米側は改定に初めは消極的だったが58年9月交渉に応じ60年1月6日妥結、19日ワシントンで調印され、政府はこれを通常国会に提出、日米安保条約等特別委員会で審議することになった。

この交渉のさなか58年7月25日蔵相佐藤栄作は、マッカーサー駐日米大使(マ元帥の甥)に共産主義と戦うために自民党への資金援助を要請。これは公開された米公文書に基づき94年10月9日ニューヨークタイムズが報じたもので、この件は断られたがこの頃から60年代にかけて自民党は米CIAから数百万ドルの資金援助を受けていたことが明かにされます。尚、佐藤は75年に死去。

社会党飛鳥田一雄、横路節雄、石橋政嗣らを全面に立て極東の範囲、非核三原則、核抑止力と米国の核の傘、米軍基地などを争点に論争を挑み、院外でも労組や全学連、知識人等で安保改定阻止国民会議が結成され、デモや反対集会が繰返されたが穏やかなものだった。

これを一変させたのが60年5月19日深夜から20日未明にかけて衆院強行採決された会期延長と単独採決である。野党だけでなく河野一郎三木武夫石橋湛山各派議員も怒って退席。院外闘争も安保反対、岸退陣を叫ぶ十数万のデモ隊が国会周辺を埋め尽くします。

6月10日アイゼンハワー訪日打合せに来日したハガチー秘書が羽田で全学連のデモ隊に包囲され、米軍ヘリで脱出する事件が起き、6月15日全学連の1万人が国会に乱入、機動隊との乱闘の中で東大生樺美智子が死亡する。6月19日安保条約は参院の承認が行われないまま憲法61条により衆院の議決通り自然承認され、6月23日日米間で秘かに批准書を交換、岸は退陣を表明。

岸の退陣は安保条約の成立を花道としたという説もあるが、アイゼンハワー大統領の訪日を国内治安情勢を理由に一方的に断ったという政治的責任をとってのことでした。尚岸内閣は米軍の核持ち込みに関し秘密裡に合意。

佐藤栄作の金権腐敗体質は田中角栄金丸信小沢一郎に受け継がれ、ますます巧妙化・巨大化する。


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