岸信介の誓約書

鳩山退陣のあとは自民党総裁公選によって石橋湛山が総裁となり56年12月23日首相となった。本命は幹事長岸信介だったが、通産相石橋湛山と総務会長石井光次郎との連合が成り、岸が豊富な資金で票の買収をすると、石橋の参謀石田博英(組閣後労相)は2億円の買収資金で対抗、更に参議員対策として「参院から大臣3人」を約束。これが自民党政権全期間を通じて慣行となる。

石橋の主張として有名なのは21年(大正10)に発表された「小日本主義」である。「植民地支配や未開地の領有は経済的にも引き合わないし、支配される人々の恨みを買うから率先して放棄すればよい」と卓見したものであった。

さて石橋は総選挙に備えて全国を行脚、厳寒の屋外で行われた母校・早稲田大学の総理就任祝賀会に出席して肺炎となり2ヵ月の療養が必要といわれ退陣を表明。後継には首相臨時代理を努めた外相・岸が、党内の抵抗なく57年2月25日首相に指名された。岸は念願である日米安保条約改定の足がかりをつくるため訪米。57年6月21日日米新時代をうたうアイゼンハワー大統領との共同声明を発表。

前回の総選挙から3年が経ちこの間に三内閣が代ったので、岸と社会党委員長鈴木茂三郎が会談して「社会党が内閣不信任案を出しその採決直前に解散する」という筋書きをつくり、58年4月25日それに従った解散が行われた。話合い解散と呼ばれる。5月22日の総選挙の結果は自民党298議席社会党168議席であった。

当時の自民党主流派は岸、佐藤栄作河野一郎大野伴睦の四派であり、反主流派は池田勇人石井光次郎三木武夫などの派閥であった。岸の野党や与党反主流派を高圧的に抑えこもうとする手口に反発した池田国務相、三木経企庁長官、灘尾弘吉文相は58年12月27日揃って辞任。岸は独占する党役員の一部を反主流派に明け渡して事態を収拾しようとするが、総務会長河野や副総裁大野が反対。

岸は一計を案じ59年1月9日次の政権は大野にという意味の誓約書を書いたのである。岸・佐藤兄弟が大野、河野に誓約し、それを大野らのスポンサーの永田雅一大映社長、萩原吉太郎北海道炭礦汽船社長、右翼の児玉誉士夫の3人も署名した密約であった。河野は総務会長を降り無役となり、池田派の益谷秀次が入り反主流派の抵抗は弱まる。

59年6月参院選挙後の党役員・閣僚人事で河野は幹事長ポストを要求するが佐藤が猛反対。岸は副総理を打診するが河野は拒否。直前まで岸内閣に入閣することは絶対無いと断言していた池田が一転通産相として入閣。これにより大野、河野が反主流に転じ佐藤、池田、石井らの旧吉田系官僚派が主流派となる。

河野が幹事長以外のポストは絶対に受けないとの情報を佐藤が池田に伝えるやいなや、池田は入閣受諾を岸に伝えたのである。河野の強気が読み違いを招いて四派体制から離脱することになり、岸は密約を反古にする口実を得たのである。


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