日ソ共同宣言

吉田内閣は造船疑獄事件等で民意を失い、鳩山一郎日本民主党を結成して54年12月10日政権の座に就き、「第3次世界大戦回避のため東西両陣営は貿易を盛んにすべき」と語り、対米一辺倒だった吉田政権との違いを鮮明にしました。

これを受けて駐日ソ連代表部のドムニツキ―臨時首席は、55年1月7日と25日の2回に亘り音羽の鳩山邸を極秘に訪問、「ソ連政府は戦争終結宣言により国交を回復し相互に大使を交換、領土、通商、戦犯等について交渉する用意がある」と申入れます。

日ソ交渉はロンドンで松本俊一前駐英大使を全権として55年6月から始まる。日本政界では同年11月、前月の社会党統一に刺激され日本民主党自由党との間で保守合同が成り自由民主党として出発したあとも交渉は続いた。56年2月モスクワでソ連共産党大会が開催され、スターリン批判が行われ同時に資本主義国との平和共存政策が発表された。しかし日ソ交渉は領土問題で対立したまま同年3月無期休会となる。

56年7月重光葵外相を首席全権としてモスクワでの第二次交渉が行われたが、四島一括返還を要求する主張に対しソ連側の態度は硬く交渉は難航。56年10月2日政府は鳩山訪ソを閣議決定。鳩山は社会党鈴木茂三郎浅沼稲次郎らの激励を受ける。

10月19日クレムリン宮殿にて両国間の共同宣言として正式調印されたが、領土問題については歯舞群島色丹島を平和条約締結後に引き渡すとし、国後・択捉両島返還は共同宣言の効力が発した後、継続交渉することになったがその明記はされないだけでなく、驚愕すべきは賠償請求権の相互放棄に日本側は同意しているのである。
なんたる弱腰! 日ソ中立条約を無視して一方的に攻撃したのはソ連ではないか!!

56年12月23日鳩山首相は退陣。ソ連が反対していた日本の国連加盟は、日ソ国交回復によって反対が無くなり57年10月国連総会で承認されます。

全国抑留者補償協議会が国を相手どり損害賠償や強制労働の未払い賃金の補償を求めたシベリア抑留訴訟で、99年3月13日最高裁は「抑留中の労働賃金を支払う法律を制定していないからといって、立法府の裁量の範囲を逸脱しているとまではいえない」として上告を棄却してしまいます。

2010年6月鳩山一郎の孫、鳩山由紀夫首相は元シベリア抑留者に、最高150万円を支給する「シベリア特措法」を成立させました。


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