対米覚書の真相

日米開戦時の駐米大使館参事官井口貞夫は、自分達の落ち度が「騙し討ち」だと非難されたことに憤慨。それを度々聞かされた息子の武夫は、父の汚名を雪ぐべく対米覚書手交の遅れの原因研究に取組み、その裏にあった陰謀を突き止めたのである。

41年12月3日に山本熊一アメリカ局長が起草した対米覚書案には、米国に一片の誠意も見られないとして「交渉打ち切るの止む無きに至れる」と宣言、「将来発生すべき一切の事態については合衆国政府において、その責めに任ずべき」と開戦意図が明記してありました。

しかし政府と大本営との連絡会議の主戦派である東条首相・嶋田繁太郎海相・鈴木貞一企画院総裁が最後通牒を単なる外交文書ととれる内容に書換え、しかも真珠湾攻撃の直前に手交して、奇襲を成功させようという姑息な作戦を考えたのである。

12月7日正午に中央電信局に届いたルーズベルトから天皇宛の親電は友好と和平を訴えたもので、外交交渉の余地ありともとれる覚書を手交し、奇襲を行ったのでは天皇が非難の矢面に立たされると考えた統帥部は、通信参謀戸村盛雄少佐に命じて親電の配達を遅らせると共に、外務省に覚書の修正を命じた。これが手交を遅らせる原因となったのである。

井口が注目したのが打電直前のタイプ原案・覚書の修正である。「合衆国政府が現在の態度を持続する限り今後交渉を継続するも妥結に達するを得ず」これでは宣戦布告どころか米国が友好的態度を続ける限り交渉は続けると読まれかねない。

外務省が日本大使館の落ち度ではないと認めている証拠に、井口貞夫参事官は戦後外務事務次官となり、後に駐米大使となっている。対米覚書をタイプした奥村勝蔵一等書記官も外務次官となり、その後駐スイス大使に任命されている。

07年に結ばれたハーグ条約の宣戦布告条項は単に開戦儀礼に関する取決めで、16年の対ドミニカ戦争で米国は宣戦布告なしに奇襲、占領している。真珠湾攻撃より先に日本軍は英領マレー半島への上陸作戦を敢行したが英国は宣戦布告の有無など問題にしなかったがルーズベルトだけが「騙し討ち」「破廉恥」などと憤激して見せたのは、「アメリカの若者の血を一滴たりとも流させない」という大統領選での公約を破り欧州戦線に参戦するための扇動だったのである。

尚、GHQは日本国憲法教育基本法を押付けたが、ハーグ条約にある「占領者は現地の制度や法令を変えてはならない」という趣旨の第43条にあからさまに違反している。


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