文化大革命

国家主席劉少奇訒小平らと共に、大躍進政策で破壊された経済や農村を救うべく政策の転換を図ります。例えばある程度自由に商売できるよう規制緩和したり、農民の土地所有を認めるなどの方策である。毛沢東にとって重大なのは毛と違う路線を歩みそれが成功することで国家・国民より自己の権力・権威を維持することにありました。

66年5月毛は国防部長林彪を手先に使って軍隊を掌握し、夫人の江青を中心とする過激グループを中枢部に抜擢して身辺を固めた上で、無知な学生達を煽って紅衛兵として組織し、ならず者やゴロツキ達を造反派に仕立て、党と政府幹部に対する民衆の不満を利用して下からの造反という民衆運動、いわゆる文化大革命を発動します。

その結果は毛の思惑通りでした。大躍進を批判して粛清された彭徳懐は67年江衛兵から暴行を受けて下半身不随となり病院に監禁。74年直腸癌になるが治療はもちろん鎮痛剤も打って貰えず苦しみの中で死亡。68年10月警備が厳重な筈の国家主席劉少奇の居宅に乱入した江衛兵は、妻の王光美を逮捕し、劉自身も自宅軟禁されるが入浴も許されない中で病に倒れ、河南省に移された後は倉庫に幽閉され悲惨な最期を迎える。

林彪は毛の右腕として文化大革命を推進。「毛主席語録」は軍内部で学習させるために林彪が編集させたものである。毛は林彪を後継者に指名し党の規約にも記すが「国家主席」の廃止を表明。林彪政治勢力膨張を警戒したのである。71年9月林彪は粛清されるならとクーデターを計画し失敗に終って飛行機で逃亡中モンゴルにて墜落死。

毛の次の目標は周恩来であった。毛は周恩来の権力を牽制するために自分の手で打倒した訒小平を復帰させ党務と政務の全般を任せます。しかし訒小平は毛路線に対する大胆な修正を行い、江青夫人グループとも果敢に戦います。76年1月に周が病死すると重病の毛はなんの躊躇いもなく訒小平を「走資派」として失脚させます。同年9月毛は83歳の生涯の幕を閉じました。

10年に亘って吹荒れた文化大革命によって約一億人が政治的迫害を受け、一千万人以上の人々が惨殺されたり自殺に追込まれた。更に北京の白塔寺、潭柘寺など多数の寺院の仏像や公園の石碑も破壊され北京市内の文化財4,922ヵ所が損傷を受けた。

毛沢東語録に「共産党員は常に誤りを正す覚悟を持たなければならない。なぜなら如何なる誤りも人民の利益と一致しないからである」とあります。毛沢東を建国の父として強制的に敬意を払わせられる中国国民の心の内は如何ばかりであろうか。


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