大躍進政策

57年11月ロシア革命40周年記念式典でのフルシチョフ発言「15年でソ連は米国を追い越す」に刺激された毛沢東は「15年で中国は英国を追い越す」と大言壮語を吐いてしまいます。毛沢東は大規模な設備投資を必要とする鉄鋼生産の目標数値を僅か二年間で5倍と決定します。

毛沢東は、農民が一年間穀物を作らなくても全国民が食うに困らないだけの食糧を作っておけば後は国民全員が鉄鋼生産のために全力を尽くせると考え、食糧生産高の倍増を決め、総ての人民公社の幹部、地区の共産党幹部たちに檄を飛ばし厳命します。

農業増産のため推奨された方法の一つが1m程度まで掘り下げ深く耕すことであった。もう一つの方法はギッシリ苗をつめて密植するという方法で、大量の作物が育ったが籾の中に何もない非論理的な農業が横行したのである。

58年の秋には倍増ができず、保身を第一とする人民公社の幹部達からは一斉に倍増できたと嘘の報告が上がり、政府は生産高に応じた公糧供出を命じます。結果、幹部達は人民公社の農民が自家用の食糧として保留すべき穀物の大半を強制的に収奪して公糧に当てます。次の収穫まで農民達の食糧が不足するのは必至となったのである。

毛沢東は59年春から全国の人民公社に対し全農民を動員して鉄鋼大生産運動に全力を挙げろと命じます。溶鉱炉の殆どは製鉄に縁のない人々が見よう見まねで煉瓦を積み上げて造ったり、瓦や陶器を焼いていた釜を改造したり、容積1立方m程度の炉が大半を占め、原料炭がない場合は木炭を使い鉄鉱石が不足すると鍋や釜を鋳つぶした。この土法高炉という古代の製鉄法により大量且つ粗悪な鉄鋼が生産されたのである。

大躍進政策の失敗によって毛沢東の権威は失墜し、59年国家主席劉少奇に譲り第一線から退く形をとります。大躍進の失敗と大飢饉発生を知った副総理・国防部長彭徳懐は経済政策の疑問を呈し大躍進の再考を求めます。激怒した毛沢東劉少奇周恩来らに意見を求め同意を得て彭徳懐を吊し上げ彼を擁護した黄克誠や張聞天と共に粛清してしまいます。

毛沢東の暴走を止めようとする党幹部はいなくなり、既に破綻した大躍進政策が更に進められ大飢饉は59年で終わらずに60年61年と続き、最終的には数千万人の農民が餓死してしまいました。中国共産党は長い間、この3年間の飢饉の原因を許し難い人災であったにもかかわらず「3年自然災害」だとして事実を隠蔽したのです。


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