北進だった陸軍はノモンハン事件で南進に!

39年(昭和14)1月4日近衛内閣総辞職、枢密院議長平沼騏一郎が組閣。板垣陸相・米
海相・有田外相らは留任。近衛は枢密院議長兼無任所大臣として入閣します。

中国戦線で泥沼に嵌った日本軍を徹底的に叩きその北進を阻止したいスターリンは同
年5月11日戦備を充分整え満州の曖昧な国境線を侵犯。関東軍のNo5服部卓四郎中
佐・No7の辻政信少佐ら作戦参謀は簡単に挑発に引っ掛かります。(ノモンハン事件)

ソ満国境の兵力・戦力の対比は、例えば飛行機は日本の340機に対しソ連は200
0機、戦車は170台に対しソ連は1900台である。スターリンの粛清による赤軍
戦力の低下を日本陸軍は過大に評価していたのである。

問題は作戦ではなく、敵が大兵力を投入できることを認識しなかった情報戦の欠陥と
参謀本部の意向を無視して手持ちの兵力で勝とうとした自信過剰と現地の独走であり
これはこの事件に限らず、太平洋戦争の全局面を通じて日本軍が犯した過ちである。

同年8月23日突如独ソ不可侵条約が締結され、ソ連はヨーロッパの兵力をノモンハン
に割くことができました。ノモンハンの日本出動兵員は58,925人で、戦死傷不
明者は19,768人という大惨敗でした。陸軍はこの敗戦からの反省よりも、敗戦
そのものの隠蔽に傾注します。

負傷入院している小隊長・中隊長の尉官クラスには、関東軍参謀が出向き戦線離脱を
責めたて、自決のための拳銃を置いて帰ったという。更に一般兵士は死亡率の高い最
前線に配属し、高価な体験をその後に生かす道を自ら閉ざしたのである。

結果として、日本は中国本土の泥沼に嵌り、対米戦に追い込まれるという、ソ連と中
共産党の思う壺に嵌ることになる。それは共産主義戦略の勝利であり、日本の政策
決定過程の欠陥がもたらした日本戦略の敗北であった。

ソ連の司令官ジューコフ中将は「日本軍の下士官は頑強で勇敢であり、青年将校は狂
信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である」とスターリンに語ったという。


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