二つの和平工作

38年(昭和13)2月頃から参謀本部謀略課長影佐禎昭大佐らが極秘裏に、国民党副総裁
汪兆銘担ぎ出し工作に動き出し6月陸軍省軍務課長に転じてからも工作を続行します。

近衛首相は同年5月26日外相を宇垣一成とし和平工作を一任。宇垣は国民政府行政院
長孔祥煕と交渉を重ねるが、陸軍の強硬派が講和条件を加重。国民政府側は交渉中止を表明します。

加えて陸軍は興亜院を設置しそこで中国問題を一括して扱うと言い出します。外務省
の外交権を奪う意図で、激怒した宇垣は同年9月29日辞職。12月16日興亜院発足。

宇垣は「事変の解決を任せると言っておきながら、今に至って私の権限を削ぐような
近衛内閣に留まり得ないのだ」と憤慨。近衛の鉄の如き支持が必要だったのである。

日本陸軍は同年10月22日広東占領、10月26日漢口占領。漢口を攻略した第二軍の食糧
は最初から現地徴発であった。穀物収穫期を狙ったのである。国民政府は重慶に脱出。
日本国内では国民が歓呼の声をあげ旗行列を続けていたが、実際には戦局が長期消耗
戦に入っただけに過ぎないのである。

同年11月12日影佐らは上海で高宗武や梅思平と激論を交し「日中協議記録」を纏め20
日調印。この記録は11月30日日支関係調整方針として御前会議で承認され国策となり
、これに呼応して12月18日汪兆銘重慶を脱出、39年1月近衛は内閣を投出します。

この背景には、陸軍のゴリ押しに屈した近衛がありました。協議記録には平和回復後
二年以内に撤兵と謳われていたが、国策にはそれが明文化されていないのです。

佐野眞一は、「影佐機関の汪兆銘工作資金は数百億円と予想される。当時満州から時価数百億円の金塊が大連丸で運搬されたことは確かで、これがペルシャ阿片輸入の原資となった。この輸入阿片の利益は約二千万ドル(現在の貨幣価値に直すと三十兆円)にも上った。また阿片を直接管理していたのは興亜院である」と言っております。


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