ヒトラーを真似る陸軍次官東条英機

参謀本部は決めたばかりの不拡大方針を捨て、38年(昭和13)4月7日徐州作戦を命令
中国大陸には七〇万の日本軍がいたが対ソ戦用に温存された師団も増派し、5月19日
には徐州を占領します。一週間後の26日近衛首相による内閣改造が実施されます。

同年7月11日ソ連満州・朝鮮の国境が接する張鼓峰にソ連軍の陣地構築が開始され
ます。平成22年のロシア公文書解禁によって、この事件も39年のノモンハン事件も、
ドイツに備えるソ連が仕掛けた作戦であったことが確認されております。

板垣陸相天皇に「宇垣外相も賛成したので張鼓峰を急襲したい」と上奏します。

天皇は、柳条湖といい盧溝橋といい、陸軍は中央の命令には全く服さず、出先の独断
で軍隊としてあるまじき卑劣な方法を用いることがしばしばある。今後は朕の命令な
くして一兵たりとも動かすことはならんと叱責します。辞意表明の板垣を近衛が慰留

現地の師団長尾高亀蔵中将は、中央の中止命令を無視して7月31日攻撃を開始。二個
師団の兵力を集中して、8月6日第二次攻撃するもソ連の戦車重砲によって大打撃を
受け8月11日モスクワで停戦協定が成立。ソ連は36年のスペイン内乱で敗れた経験か
ら敵弾の貫通を防ぐ戦車を投入、日本陸軍はこの敗退の究明もなく隠蔽に汲々。

板垣と参謀次長多田の和平工作に批判的な陸軍次官東条英機は、同年11月28日陸軍管理事業主懇談会で、ヒトラーを真似して甲高い声で演説します。

蒋介石を支援する英仏ソを非難し「ソ支同時正面作戦」をぶち上げ、加えて中立を守
る米国も警戒する必要があると訴えます。この軽率な演説に板垣は次官辞職を要求。

「どうしてもと言うなら多田参謀も」と東条は多田罷免を要求します。多田は第三軍
司令官として満州へ転出。東条は12月10日新設された陸軍航空総監部の初代総監へ。

二正面作戦は必敗に繋がることを熟知している筈の東条発言には驚愕します。蛮勇を
誇示することで国民大衆に迎合したかったのであろう。


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