内容が異なる二つの外相名電文

34年(昭和9)ドイツ大使館付武官に任命された大島浩は、36年11月日独防共協定締結
の主務者としてヒトラーの信任を獲得。ミュンヘン財閥と繋がるナチスの外交官リッ
ベントロップの提案で37年11月イタリアも参加します。

外相となったリッベントロップは、38年4月から5月軍事顧問団を中国から引きあげ
中国への軍事物資の輸出を禁じ、更に日本の悲願であった満州国を承認します。

駐独大使東郷茂徳は、勝手な大島の外交交渉を止めさせるよう外務省に上申します。
外相宇垣一成はこれを認めず東郷にソ連大使転出を、日独伊防共協定に反対する駐英
大使吉田茂を日本に呼戻し、外務省人事をズタズタにしてしまいます。しかし宇垣は
陸軍の興亜院設置構想に対し、対中和平交渉を外務省の手に残そうと孤軍奮闘するが、
主張が通らないとみて38年9月29日辞職。一時近衛が兼任後有田八郎が外相へ。

大島は38年3月中将に昇進、同年10月予備役編入とともに、駐独大使に横滑りします。
陸軍が外務省にゴリ押ししたのです。

リッベントロップは大島に即、三国防共協定強化策を示します。それは日本として、
英仏に対し敵対関係に入ることを意味する内容でした。有田外相からの返電は「一石
三鳥の案だ」と---十日後「あくまでもソ連を対象にするもの」と---外務省の記録に
は正式公電として前の電報は残っていないのです。外務省内の枢軸派官僚の仕業か?

有田は「協定の対象はソ連に限り英仏ではない」と主張し、閣議を纏めます。持ち帰
った板垣陸相は下僚に散々責められ、「ソ連を主とし英仏を従とするだけでソ連以外
を含まないことではない」と首相・外相を唖然とさせ近衛の内閣投出しの主因となる。

司馬遼太郎は「戦後、米国の日本占領政策が円滑に遂行されたのは、既に日本は日本
陸軍に占領されていたからだ」と語っています。


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