陸軍皇道派の盛衰

犬養毅首相の死後、政友会では内相鈴木喜三郎を後継総裁に決定し、大命降下を待ち
ます。軍部と結託した森恪は、平沼騏一郎の首班を構想して各方面に働きかけます。

海軍では五・一五の責任をとって大臣・次官・軍務局長を交替させます。辞職する気
のない陸相荒木は、その後任に擬せられた越境将軍林銑十郎を朝鮮から帰京させます。林には荒木派からの陸相就任辞退勧告の電報が殺到し、林も荒木の留任を説得します。結局林は荒木の陸相留任によって教育総監に転じます。

鈴木や平沼を嫌う元老西園寺公望は、西園寺―桂―西園寺―桂―山本五代に亘る内閣
海相を務めた斉藤実を指名。32年(昭和7)5月26日斉藤内閣が成立します。

石原らの日本資本流入を抑え、官民一体となった五族協和満州国建設に異を唱える
参謀次長真崎は、同年8月関東軍の司令官や参謀を全て入れ替え、財界の期待に沿う
日本的な権益主体の満州国建設を目指すのです。司令官に武藤信義が就任します。

荒木陸相は、政党大臣の介入を制限する五相会議設置を要望するなど革新政策を推進
するが、空疎な饒舌を弄するだけで何事も成し得ません。期待の大きかった青年将校
達は「実行力を欠く口舌の徒」と批判が高まります。

荒木は、師団長会議で彼等を取締る訓示を出さざるを得なくなりました。激昂した青
年将校からは、荒木に対する問責や辞職要求が殺到するようになります。天皇にさえ
面従腹背の真崎は、閑院宮参謀総長に嫌われ33年6月19日更迭されます。強力な支柱
を失った荒木は気が弱くなり、34年1月風邪から肺炎となり辞表を提出します。

荒木の後任には林教育総監が、教育総監の後任には軍事参議官の真崎が襲うことにな
りました。荒木・真崎の間で決めた人事でした。

これは林陸相をロボットにして、皇道派の温存をはかろうとする魂胆なのである。


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