二・二六事件へのプロセス

34年(昭和9)1月23日斉藤内閣の陸相荒木貞夫が病気により、陸相教育総監林銑十
郎が、教育総監に軍事参議官だった真崎甚三郎が就任。林陸相はその2ヶ月後、荒木
・真崎の横槍を押切って、軍務局長に統制派のボス永田鉄山少将を据えます。

斉藤内閣瓦解後、7月西園寺は宮中に重臣会議を召集した結果、前海相岡田啓介
組閣の大命が降ります。再び思惑が外れた政友会総裁鈴木喜三郎は、入閣した床次竹
二郎逓信相・内田信也鉄道相・山崎達之輔農相三名を除名し反内閣路線をとります。

陸軍は同年9月の閣議で、拓務省の指揮下にあった関東州等の行政権をとりあげ関東
軍司令官の一元的支配を認めさせます。

陸軍は政府や政党を無視して、公然と政治に介入します。10月配布の陸軍パンフレッ
トは、経済活動の個人主義を排し、富の偏在を是正、税の負担の公平等極めて露骨な
軍部の権限外の要求で、これは永田・東条英機武藤章らの統制派の進出による。

11月20日陸軍士官学校事件が発生し二・二六の首謀者となる村中孝次大尉・磯部浅一
主計大尉逮捕。停職処分中に粛軍ニ関スル意見書を出し、35年8月2日陸軍より追放
、野に虎を放つ結果となる。東条の意向で副校長辻政信大尉が企図した事件でした。

美濃部達吉天皇機関説問題は政争の具となり、国体明徴運動は倒閣に利用されつつ
あり、林陸相は35年(昭和10)7月15日拒絶を繰返す真崎教育総監の罷免を断行します
。新聞をはじめ言論界、政党や財界はこの真崎罷免を大歓迎したのです。

同年8月12日真崎罷免に反発した中佐相沢三郎は、軍務局長室で永田を斬殺します。
同年9月5日林陸相は、川島義之大将を後任として辞職します。

真崎は、皇道派青年将校達に絶大な影響力を持つ、村中・磯部元大尉に資金を提供し秘かに首相の座を夢想するのである。


レース結果共鳴チェック