日本全土を震撼させた二・二六事件

35年(昭和10)12月過激な青年将校が属する第一師団に満州派遣が発表されます。

永田鉄山を斬殺した相沢三郎を裁く軍法会議は36年1月8日から開かれ、皇道派の満
井佐吉中佐が弁護人となり、裁判の引延しと統制派の攻撃が盛んに行われます。2月
17日前陸相林銑十郎が2月25日前教育総監真崎甚三郎が証人として法廷に立ちます。
相沢は翌年6月30日死刑判決、7月3日刑が執行されました。

36年2月26日 早暁 機関銃、小銃、拳銃等十万発で完全武装した決起部隊1,483名は、
内大臣斉藤実(前首相)・蔵相高橋是清教育総監渡辺錠太郎の三名を殺害。侍従長
木貫太郎重傷、間違えられて助かった岡田首相、湯河原の前内大臣牧野伸顕は脱出。
天皇はこの日だけでも12回も本庄侍従武官長を呼びつけ、早く鎮圧せよと督促します

27日天皇は「朕自ら近衛師団を率いこれが鎮圧に当たらん」と厳然と言います。陸軍
中央は奉勅命令を空からビラを撒きアドバルーンを上げラジオで放送し29日事件終結

叛乱将校13名は、7月5日死刑判決となり7月12日処刑されます。(死刑判決の村中、
磯部は北一輝西田税の証人として処刑延期)37年8月14日北・西田は死刑、亀川哲
也は無期禁錮。過激な青年将校を扇動した真崎甚三郎の判決は37年9月25日無罪。北
のスポンサーで、亀川を匿って検挙された久原房之助は38年5月無罪。

松本清張は「軍部は絶えず二・二六の再発をちらつかせ政・財・言論界を脅迫した。
軍需産業を中心とする重工業財閥を抱きかかえ、国民を引きずり戦争体制に歩き出す
のである。この変化は太平洋戦争が突如として勃発するまで、国民の眼には分からな
い上層部で静かに、確実に進行した。天皇の意志には関係なしに」と言ってます。


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