米国を仮想敵国から真性敵国とした日本海軍

陸軍主導による満州事変の取りあえずの成功が、海軍に陸軍との対抗上深刻な危機感
と焦燥感を与えます。

32年(昭和7)1月18日に第一次上海事変が起きると海軍中央は、上海市街に陸戦隊を
上陸させ第十九路軍との間で激戦が開始され、劣勢を挽回できず陸軍の応援を要請す
る事態となります。日米開戦はこの時点で現実感をもって認識され始めました。

33年10月海軍軍令部参謀石川信吾中佐は軍縮に対する私見を提出。パナマ運河を通れ
ない超巨大戦艦、ありえない不沈戦艦を夢想します。貧乏海軍ゆえの発想であり、日
露戦争の成功体験から抜け出ない具申を加藤寛治・末次信正ら対米強硬派は大歓迎。

34年7月南雲忠一大佐は、ワシントン条約破棄を主張し、連合艦隊司令官・参謀等の
署名をとり、上申書を提出し、陸軍同様海軍軍人も政治に容喙します。

同年10月には、石川提案の超大戦艦の建造要求が、軍令部から艦政本部に提出され、
無用の長物となる戦艦「大和」「信濃」の建艦が着手されます。飛行機や潜水艦の強
力化を怠った重大な戦略ミスと言わざるを得ない。

斉藤内閣時代抑えていたワシントン条約破棄は、同年12月軍縮に熱心な岡田内閣によ
り、皮肉にも実現します。更に35年(昭和10)12月資源もない、国力も不充分な日本は
あっさりとロンドン軍縮会議を脱退し、軍備無制限時代に突入してしまいます。

半藤一利著「昭和史」「昭和史探索」第3巻より

南部仏印進駐をためらう上層部を突き上げ、日米開戦を強く主張した石川信吾は、開
戦後「日本を戦争に持っていったのは俺だよ」とアッケラカンに語っていたが、東京
裁判では容疑者にもなっていない。石川は戦後も生延び、昭和39年(70歳)死去。


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