支那事変を仕掛けたスターリンが日本を侵略国と・・・

44年(昭和19)11月7日の革命記念日スターリンは「日本はドイツと共に侵略国なり」とする演説が短波放送によって日本に伝えられ大きな衝撃を与えます。12月末から45年2月にかけて参謀次長秦彦三郎中将の命でクーリエとして参謀瀬島龍三中佐は瀬越良三と名乗ってモスクワに赴きます。その命がけの使命は遂に明らかにされません。

12月1日ソ連軍最高司令部はソ満国境に向けトラックを主とした兵器・弾薬・燃料・糧食等の輸送を開始。シベリア鉄道の東行が活気づき2月24日に帰国した瀬島は「ソ連軍の兵員・資材であった。その服装から歴戦の部隊であることは明白」と語ります。

45年2月9日梅津参謀総長天皇に奏上。「大本営の意見では米国の戦争方針が日本の国体を破壊し、日本を焦土にしなければ飽き足らぬもので絶対に米国との講和は考えられない。ソ連は日本に好意を有しているからソ連の後援の下に対米抗戦を続けなければならぬ」何を証拠にソ連が好意的なのか?梅津が正体を現した瞬間なのである。

天皇の再三の督促で重臣(首相経験者)参内が行われます。2月14日に指定された近衛文麿は一億玉砕を叫ぶ者は右翼者流なるも背後より扇動しつつあるは、国内を混乱に陥れ革命の目的を達せんとする共産分子なり--これが後日近衛の命取りとなる上奏文で、上奏させるべく近衛を説得した吉田茂は4月15日憲兵隊に逮捕されます。吉田の大磯別邸の書生は中野学校出の諜報員でその写しを持ち出し決定的証拠となりました。

2月4日から11日米英ソ三国首脳はクリミア半島東岸のヤルタで会談。この会談でドイツ人捕虜を復興のために使用することに、スターリンは米英首脳の同意を得ます。これがポツダムへ引継がれ、日本軍捕虜のシベリア抑留の大義名分をソ連に与えたといえるのである。加えてソ連はドイツ降伏より3ヶ月後に連合国に与し日本に参戦するという密約が交わされます。

直後にこの密約情報を入手したストックホルム駐在武官小野寺信少将は、2月某日大本営参謀本部次長秦中将宛に打電。参謀瀬島中佐はこれを握り潰すのみならず、受電そのものの隠蔽工作も施します。


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