梅津のソ連対日参戦促進工作 ①

45年(昭和20)4月5日ソ連モロトフ外相は佐藤尚武大使を招致して、日ソ中立条約
破棄に関する覚書を読みあげた。これでこの条約は1年後にその効力を失うことにな
り、ソ連が敵となるのなら英米に直接和平を申入れ終戦を早めるべきでした。が----

重臣達は小磯内閣に不満をもち、同年3月末に既に後継首相の人選について下相談を
重ね、枢密院議長鈴木貫太郎(海軍大将)ということに纏っていました。参謀総長梅津
美治郎は小磯内閣継続を支持。4月5日の重臣会議では東条英機の徹底抗戦論に押し
まくられた重臣達は、後継首相の人選は逆に東条を抑えることに成功します。

4月6日戦艦大和が徳之島沖に撃沈された翌日鈴木内閣は、陸相阿南惟幾海相米内
光政・外相東郷茂徳を主要閣僚として成立。陸軍は阿南入閣の条件として、あくまで
戦争を完遂すること等三条件をつけたが、鈴木は戦争終結について一言も発しません。

共産主義の脅威と戦争終結を訴えた近衛上奏文は、内大臣木戸幸一から参謀総長梅津
に渡り、4月15日吉田茂は上奏文の内容を流布した罪で憲兵に逮捕されます。

参謀次長河辺虎四郎中将(前参謀次長秦彦三郎中将は4月関東軍総参謀長として転出)と作戦部長有末精三少将は東郷外相に対し、ソ連参戦防止のため対ソ工作を果敢に決行するよう脅迫。ソ連に信をおかない東郷は「最早手遅れ」と回答。5月8日にはドイツが無条件降伏し、日本軍の沖縄防衛戦も敗北が濃厚となり、手遅れであろうと陸軍中央は躍起となり、海軍中央もそれに同調します。

5月11日から三日間にわたる最高戦争指導会議が開かれ、その席上米内海相が「ソ連
の参戦防止だけでなく、ソ連から軍需物資、特に石油を買いたい」と発言。首相も知
らぬ間に、既に海軍は軍務局第二課長末沢慶政大佐をソ連大使館に遣り、残った軍艦
全部とソ連の飛行機を燃料つきで交換しようと交渉。その後何度足を運んでもウォトカを振舞われるだけであったという。

この会議ではソ連参戦の防止・ソ連仲介による和平を目的とする対ソ交渉を開始する
ことになります。これに軍部が反対しなかったのは、ソ連参戦を防止することがその
主張する本土決戦に不可欠の条件であったからでした。

6月初め陸軍・迫水久常内閣書記官長らの手によって「今後採るべき戦争指導の基本
大綱」が作成され、本土決戦気運を急速に高めます。


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